Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

怪傑ダントン(1921) - 神様あの子を奪わないで

後半の方は妄想になってしまいました。嫌な予感がする方は読まないでください。

今回紹介するのはフランス革命を描いた1921年サイレント映画、『怪傑ダントン』である。実はかなりフランス革命、特にこの裁判周りが好きなのだが、いったん熱が沈静化していたのでnoteではあまり書いていない。しかし最近再発したので、グダグダと感想を書いた。

Danton(1921) 邦題「怪傑ダントン」
アメリカでのタイトルは"All for a woman"だったらしい。他にも「ギロチン」(ソ連)「マルセイエーズ」(スウェーデン)「The loves of mighty」(イギリス?)のタイトルで公開されたこともあるらしい。

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監督:ディミトリー・ブコウスキー
製作国:ドイツ
キャスト:エミール・ヤニングス(ダントン)オシップ・ルニッチ※(カミーユ・デムーラン)シャルロッテ・アンダー(リュシル)マリー・デルシャフト(ジュリー)ヴェルナー・クラウス(ロベスピエール) エドゥアルド・フォン・ヴィンターシュタイン(ヴェスターマン将軍)ロベルト・ショルツ(サン=ジュストヒルデ・ヴェルナー(バベット(本作オリジナルキャラクターの民衆の少女))etc. 
※本作ではJosef Runitsch名義で出演。どうやらルニッチは、外国の舞台や映画に出演する時には自分のファーストネームをその都度各国語に合わせていたらしい。

 

失敗した『ロックンロール・ハイスクール』とも言えるダントン派裁判と処刑は様々な文学作品の題材となっているが、本映画は一応はビューヒナーの戯曲『ダントンの死』が原作ということになっている。ただし実際のところはほぼ別物と言って良い。

主な相違点として、


・登場人物
明らかにオリジナルキャラクターのバベットはさておき、ダントンの妻ジュリアはビューヒナーのジュリーとは別人と言って良い。当然、史実のダントンの妻ガブリエルやルイーズとも一切関係ない。本作では王党派のエローは史実では国王の処刑に賛成し、ダントンらより左派だった。またヴェスターマンは『ダントンの死』には登場しない。

・人間関係
特にリュシルを巡る関係は全てフィクションであり、ビューヒナーの戯曲にもそんな場面は一切ない。彼女とカミーユの約10年にわたる恋愛がなかったことになっているため、史実のリュシルがこの映画を見たら猛抗議するのではないか。

ダントン派の人選も謎だ。フィリポーやラクロワ、ファーブル・デグランティーヌは登場せず、本当は違うのにイメージだけで王党派ということにされたエローと『ダントンの死』に登場しないヴェスターマンが選ばれている。あくまで予想だが、本作はロマン・ロランの『ダントン』(1909) もかなり(ビューヒナー以上に?)参考にしたと思われる。ヴェスターマンはこの戯曲で大活躍しているため、他の人物を押しのけて彼が選ばれたのではないか。貴族と軍人のコスチュームがヴィジュアル面の印象に残りやすいという理由もありそうだが。

カミーユとは何者だったのか?

この映画で私が一番好きなのは、ロシア無声映画の最初期美男スターの一人であるオシップ・ルニッチ演じるカミーユ・デムーラン。肖像画同様ウェーブのかかった黒髪ロングで、服も黒や濃色が基調だ。白黒映画の特徴的な化粧も相まって、ゴス感が出ており個人的な好みに非常に合致している。そのような外見の一方で、陽気で優しく友人には忠実、また喜怒哀楽が豊かで誰もが愛してしまう非常にかわいいキャラクターを、ルニッチが魅力的に演じていたと思う。フランス革命ものにおける私のベスト・カミーユ(暫定)である。

 

だが彼とリュシルとの関係は不可解だ。史実とは異なり、彼が結婚したのは貴族の娘という理由で拘束されていたリュシルを助けるためだ。「君は命が惜しいから革命家と結婚したいだけだろ」とまで言っている。ルニッチの他出演作と比べても、この場面では女性を口説いているようには到底思えない。また続く場面では「革命的結婚式」のテロップが出ているが、その様子は恋愛結婚にはどうあがいても見えない。カミーユは単に「革命的」儀式を上げたことに満足しているようだ。(もしかすると彼らが第一号であり、彼はその栄誉が欲しかったにすぎないのかもしれない)カミーユが何を考えているのか、リュシルのことをどう思っているのかよく分からないのだ。

自宅に押しかけた民衆を演説で追い返したダントンにリュシルが感銘を受ける場面もそうだ。ダントンはリュシルが自分に気があると思い込み、ジュリアは嫉妬する。だがそれ以上におかしいのはリュシルもダントンもジュリーも誰一人カミーユを気にしないことだ。それどころか居たはずのカミーユはいつの間にか姿を消してしまうが、誰も気にも留めない。またその後ジュリアがリュシルに「あんたのお友達のダントンも死刑になるでしょうね」という趣旨の言葉を放つが、誰もカミーユについて言及していない。ダントン&カミーユ&リュシルの3人の場面はその後も存在するが、気まずさや罪悪感が生じることもない。

 

しかしカミーユとリュシルは互いに無関心ではない。カミーユが無理やり連行される場面でリュシルは彼を連れて行かせまいと一緒に抵抗する。牢獄でも彼女は処刑を恐れるカミーユを「頑張って、民衆が助けに来てくれる」と励ます。あまりにも2人が急に親密になるため、私が観た版では何かしらの場面が欠落しているのではないかと疑うほどだ。あらすじでは「リュシルがダントンと不倫する」ように扱われているが、リュシルはあくまでずっとカミーユを助けようとしていたのではないかと思う。好意はダントンとジュリアの思い込みにすぎない気もする。むしろ不実なのはカミーユの方である。あれだけ励ましてもらっておきながら、いざ処刑されそうになると狼狽のあまりリュシルを突き飛ばしてまで後ずさる。罪もないのに手酷い扱いをうけた挙げ句処刑されるのだから、カミーユが取り乱すのは当然である。だがリュシルが「何とかしろよ」と目線を投げてそばに来たダントンに、カミーユは抱きついて顔を埋めるのである。ダントンとカミーユについてはこれから述べるが、献身的に彼を支えたリュシルが気の毒な場面でもある。

ダントンとカミーユ

本作でのダントンは、エイゼンシュタイン曰く「怠け者で女を追い回し、あっぱれな男で、その上邪悪な人物の多い中ではただひとりの確かな男*1」である。その通り行動はめちゃくちゃだしジャイアン的暴君に見えることもあるが、ヤニングスはそんなダントンを茶目っ気と愛嬌たっぷりに、憎めない人物として演じていた。私が好きなシーンは、ロベスピエールに宣戦布告し公安委員会の傍聴席(?)に乱入して野次る場面だ。『ロックンロール・ハイスクール』的愛すべき自由奔放さを感じさせる。一方で彼は演説にあたって禍々しくデモニックな力を発揮する。法廷で暴れ取り押さえられる時の絶望と、続く牢獄の場面でパンに群がる民衆は自分たちに興味がないことを悟った時の諦めの表情の落差も絶品だった。なお『嘆きの天使』『最後の命令』などヤニングスの当たり役は「落ちぶれる中高年男性」とされているが、このダントンに落魄はあまり感じられない*2。自分たちの信念を主張し、華々しい弁論を見せるが不当に妨害され処刑されたという「やり切り感」があるからか。ロベスピエールたちもすぐに処刑されることを私たちは知っているからでもあろう。また「かわいそう度」がもっと高いカミーユの存在も、ヤニングス・ダントンの「落ちぶれ感」を打ち消しているように感じる。


だが私の目にはカミーユとの関係が一番良かった。冒頭だって、一人で公安委員会(らしき組織)をやめればいいものを、わざわざカミーユを連れて行く。「俺たちは生きたいんだ!」と叫ぶ冒頭場面。『ロックンロール・ハイスクール』的精神を感じる。ここだけでこの映画の魅力が詰まっている。




他の民衆とは異なりカミーユは一度振り払われても、恐れずにしがみついてダントンに和解を訴え続けるところも、二人の関係の強さが感じられて良い。


ちなみにリュシルの協力もありダントンは半ば強引にロベスピエールと和解しようと試みるものの、ロベスピエールが拒否したため決裂してしまう。ここでカミーユを連れて行かなかった理由は不明。対ロベピにおけるカミーユへの独占欲がとても強いので、同席させたくないのか。 もっとも、一度はロベスピエールとの和解を訴えたカミーユだが、先述の公安委員会を荒らしたダントンが語る武勇伝には大ウケしていた(いくら話が面白いとはいえ、先程の訴えは何だったんだ)。このカミーユロベスピエールのことを結局どう思っていたのだろうか。

極めつけは先述の、ダントンとカミーユの抱擁である。

 

そこはかとなくエロティックな風味すら感じる。カミーユの人物造形のせいだったり、牢獄で二人だけが着衣が乱れ胸元がはだけているのもある。そもそもこの映画、カミーユがひどい目に合わされている。法廷で押さえつけられるダントンの後ろで、カミーユもかなり手酷い暴行を受けているように思う。カメラワークにも妙な熱が感じられる。先に処刑されたエローとヴェスターマンのアップは一瞬のみで、カミーユ処刑後にリュシルが駆け寄る場面もカメラは引いている。だがこの場面だけズームアップの時間が長い。感情面のクライマックスと言っても過言ではないだろう。

 

そしてこの場面で諦めて平静を保っていたダントンは強く感情を揺り動かされ、多分泣いている。罪のない友人を死へ追いやってしまったという罪悪感と同時に、一種の同性愛的感情も見て取った。ダントンが本当に好きだったのはカミーユではないか?だが無意識下か、あるいは気づいても認められずに女遊びをしていたのではないか?カミーユの方だって、ダントンのことが好きだったのではないか?リュシルの扱いが雑なのも、そのあたりに理由があるのかもしれない。最初の場面だって、あの一瞬は「世界は2人だけのもの」ではなかったか?カミーユを処刑台に送り出した後のダントンは急に混乱の渦に投げ込まれたように見える。死を目前にしたにもかかわらずこれまで蓋をした感情に直面し、彼はどうして良いのかわからなくなってしまったのではないか。

 

ちなみに1900年頃の英語の伝記や歴史書では、ダントンとカミーユ・デムーランの関係に「peculiar/deep affection」という表現が頻繁に用いられていた。またジュール・ミシュレカミーユを「ダントンの上に咲いた花」"Le pauvre Camille, qu’était-ce ? Une admirable fleur, qui fleurissait sur Danton." と呼んだ。彼らを聖書のダヴィデとヨナタンに例えたものもあった。俳優陣が歴史人物をどこまで参照したかは不明だし、性愛的ニュアンスが想定されていたのかどうかは分からないが、この場面も少なくともpeculiar affectionの表現だったのではないかと思う。

本作のダントンは暴君的要素も見受けられる。彼の敗因の一つは自分の力を過信したからだろう。だがこのダントンはなんだかんだ言ってカミーユを大切に思っていた気がする。扱いが雑で乱暴なところはあれど、カミーユに対する強い愛情が感じられた。

 

映画でエミール・ヤニングスが演じた役の類型として、「女性のせいで転落する男性」が認められる。しかしこのダントンが失脚したのは女性(ジュリアやリュシル)が原因ではない。元々ロベスピエールと不仲だったが、彼の逮捕を決定付けたのはエイゼンシュタインも言う通り、カミーユの家に来たロベスピエールにつばを吐きかけたからだろう。ダントンの破滅の原因はカミーユロベスピエールから奪ったことであり、この筋書きは「女の魅力で破滅する男」のパロディだったのか。あるいはブコウツキー監督の次回作は『オセロ』(1922)で、ヤニングスとクラウスがオセロとイアーゴを演じている。この作品も観たが、シェイクスピアの原作ともども軍隊という舞台設定によりホモソーシャルの濃度が高い。IMDbでは『怪傑ダントン』は『オセロ』に向けた習作という意見もあったが、もしかすると当時このあたりの問題に監督や俳優陣が関心を持っていたのかもしれない。

だが『怪傑ダントン』のあの抱擁はホモソーシャルではなく、あくまで2人の本当の感情の呼応であるように思う。初めはホモソーシャルの枠内に踏みとどまっていたのかもしれないが、2人の関係はそこから抜け出した。

そしてこの映画はアメリカでAll for a womanのタイトルで公開され、「リュシルとの最後一度きりの接吻」が見せ場として宣伝されていたらしい。わざわざAll for a womanと題したのは(同性愛とも解釈できるほどの)強い愛情を否定・排除するためではないかとすら考えてしまう。

しかしながら現在視聴可能なものを見る限り、リュシルよりカミーユの方が強く印象に残った。もちろんリュシル役シャルロッテ・アンダーの演技が下手というわけでは全くなく、虐げられた革命下の女性像としてのはかなさと強さが魅力的だ。だがそれ以上にカミーユの感情表現の方の印象があまりにも強かった。演じたルニッチの演技力のなせるわざだろうか。彼の出演作が本作の他、ロシア時代の「悲しみよ、静まれ...悲しみよ」と「ラストタンゴ」の断片しか鑑賞できないのは残念極まりない。この作品が最後までホモソーシャルの枠内にとどまる『オセロ』とは違うのは、『オセロ』には出演していないルニッチの演技も寄与していると思う。もちろん原作(や史実)も大いに影響しているだろうが。

ルニッチのカミーユ役演技に言及している論文を見つけたが、そこでは「この役はロシア時代にルニッチが演じた「苦しむ魂を持つ青年」というよりもむしろコンラート・ファイトが演じた『カリガリ博士』のチェザーレのように、残酷さと冷笑主義に屈服した役柄だ」と述べられていた。カミーユは催眠状態に置かれていたのか。彼を操ったのはダントンか?カリガリもチェザーレの死に絶望して取り乱した。また「同性愛物語としての『カリガリ博士』論」も読んだことがある。美術面あたりでは確実に本作に影響を与えたと思われる『カリガリ博士』との比較も面白そうだ。

その他好きな点

敵役のロベスピエールはあくまで、革命のためなら流血や恐怖政治も辞さない冷血漢として描かれていた。高すぎる襟の衣装もあって、どこか人間離れしたエイリアンのように描かれていたきらいもあった。
ダントンを初めから気に入らず、「絶対に殺してやる」という強い意思が感じられた。もっともダントンの方もハナから仲直りしようとは考えず喧嘩を売っている。(カミーユとリュシルの説得には折れたが)ワイダや宝塚のように「かつての仲間との仲違いを苦しく思う」葛藤はないので、ある意味で単純明快で爽快だ。(このあたりも、『ロックンロール・ハイスクール』のリフvs. ミス・トーガーを思い出す)

しかし(これも史実&革命モノあるあるだが)かつての学友(今回は幼なじみ)カミーユだけは殺したくないと願う人間味も見せており、なんとロベピの回想の中に少年時代のカミーユロベスピエールが登場する。いじめられているロベピをカミーユが助けたことがあったらしい。

だから一層、ロベスピエールはダントンを「大切な友達(カミーユ)を誘惑して自分から奪い去った不良」として絶対に許せないのではないだろうか。(この場面をより詳細に分析するなら「幼少期の勇敢なカミーユ/救われるロベスピエール」と「1794年の弱いカミーユ/カミーユを庇おうとするも上手くいかないロベスピエール」の対比も面白いが、深入りするとめんどくさいのでやめる。)

一方サン=ジュストは葛藤するロベスピエールに「共和国が求めているから」カミーユも粛清するよう迫る。サン=ジュストは、ダントンの処刑がロベスピエールの個人的憎悪に多分に由来することを苦々しく思っていたのではないだろうか。サン=ジュストはあくまで彼らの処刑は政治的な理由、つまり「共和国のため」でなければならないと考えている。個人的にカミーユのことが嫌いだったとしても、個人的好き嫌いではなくあくまで政治的理由で処刑すべきだと考えていたのではないだろうか。ギターの場面で、カミーユの書くものは彼らの政権を転覆させる危険性を持つことも示される。サン=ジュストはこの裁判と処刑を個人的いさかいの結果には絶対にしたくなかったのだろう。サン=ジュストには単なる冷酷さだけでなく、共和国の実現に向けたまっすぐな思いも同時に感じられた。

ヴィジュアル面、舞台装置や衣装・メイクも好きだ。特にヴェスターマン(ウェステルマン?)はヴァンデで反乱軍を虐殺した悪名高い軍人だが、本作では白黒映画特有の野蛮なかっこよさ・美しさをもっていたように思えた。当時の批評でも「ヴィンターシュタインは出番が短すぎるヴェスターマンを素晴らしく演じている」と書かれていたらしいので、俳優がロマン・ロラン『ダントン』(ヴェスターマンが裁判でかっこいい台詞をかなりもらっており、本作の演技にも近いと思う)あたりを参照して補完したのだろうか。ヴィンターシュタインの出演作を他にも見てみたい。

ヴェスターマン(左)と化粧の濃いサンジュスト

本作オリジナルキャラクターのバベットが、エローが逮捕され誰もいなくなった邸宅に乱入した民衆の仲間たちと再会するシーンが感動的だ。バベットは貴族の窮屈な衣装や装飾品を次々投げ捨てていくのだが、靴を手にしたとき彼女は大好きなエローを思い出す。エローのかわりとばかりに靴を抱きしめたあと、衣装同様に投げ捨て彼女は民衆のもとに戻り、歓迎される。彼女が民衆として貴族に抱く軽蔑や反感と、エローへの愛という相反する感情の強さが印象的だった。

まとめ

『怪傑ダントン』はアナーキー(単にめちゃくちゃ、という意味である。彼らは無政府主義者ではない)でロックンロールなラモーンズやリフやケイトが乱入しても馴染むくらいの快作である。悲劇的結末だが、カミーユがかわいそうなことを除けば後味は思いの外とさっぱりしている。おそらくヤニングスの演じるダントンのおかげだろう。

個人的に革命モノあるあるの、ロベスピエール、ダントン、カミーユの「かつての仲間を殺さなければならない」とか、サンジュストの「ダントンとカミーユ邪魔、ロベスピエールは僕のもの」的ネチネチした葛藤に正直食傷気味だったので、「ロベスピエールうるせぇ!楽しく生きようぜ!イェーイ!」という単純さが見ていて楽しかった。そもそも私がフランス革命の中でダントン派を好きになったのは「徳なんて窮屈なだけさ、殺し合いなんてやめて楽しく生きよう!」というロックンロール精神に溢れた享楽主義のためなので、そういった意味でも本作を気に入った。
同時に演説シーンの悪魔的力強さや、サイレント映画特有のダークなゴステイスト(ヴィジュアルや感情表現)もとても心に刺さった。どこか夢の光景のような印象すら受けた(『血とバラ』の余韻に似ているような)。私の好きな要素=ロックンロールとゴスの同居が実現しており、今のところマイ・ベスト・フランス革命ものである。

バージョン問題とエイゼンシュタイン

最後にyoutube動画について。私が見たのはこのバージョン(46分)のみであるが、1920年代に公開されたときの本編は87分(あるいは60分)だったらしい。再生速度が異なっているためか、あるいはyoutube版には編集や欠落がある可能性も考えられる。一方アメリカで1996年に約50分のVHSが発売されたことが確認できた。おそらくyoutubeはそのビデオの映像だと思われるが、そうなるとyoutube版は一応全ての場面が揃っていると考えて良いのだろうか?ここまでの感想や考察は、あくまでyoutube版のみを鑑賞してのものだということは断っておく。

ちなみにエイゼンシュタインによればソ連版は『ギロチン』のタイトルで、大幅なモンタージュ編集がされたらしい。なんとラストシーンとしてカミーユが処刑され、それを目の当たりにしたダントンがロベスピエールに詰め寄り、ロベスピエールは幼なじみの死に涙を拭っておしまいだったそうだ。カミーユだけ死ぬのはあまりにも最悪なバッドエンドではないだろうか。


カミーユ(ルニッチ)が映っているスチル写真はこれしかない。だがこのシーンは本編にないような。

*1:『映画の弁証法』 1989, 角川文庫, p. 151

*2:そもそも史実のダントンは享年34歳なので、ヤニングスの役にしては若い