Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

『ナポレオン獅子の時代』フランス革命編感想

大仕事が一段落したので約10年前に5巻までで止めていた長谷川哲也『ナポレオン獅子の時代』(と『覇道進撃』)をまた読もうと思って、とりあえず持ってる5巻までを読み直していた。フランス革命は5巻までで大体終わりかな?(現在7巻まで進みました。先は遠い。)

2/12追記: 獅子の時代全15巻読み終えました。2月中に覇道進撃入るつもりです。

死によって完結する究極の愛?

一番印象に残ったのは戦闘でも革命の主要事件でも流血シーンでもなく、4巻でダントンが妻の墓を掘り返して死体を抱きしめるシーンだ。(ちなみに史実でもやっていた。)

この上なくロマンティックで究極の愛の表現だと思う。漫画で一番好きな恋愛シーンの一つだ。初読時に中学生だった私の性癖はこの4ページで狂わされたといっても過言ではない。

特に

なんかの罪で告発するならしろ そのかわり俺たちをしばらく二人きりにしておいてくれ

という台詞に愛の強さを感じた。このコマでダントンが妻の身体を抱きかかえる様子にも深い愛情がにじみ出ていると思う*1

この妻の名前は作中で明示されないが、多分史実通りガブリエル (Antoinette Gabrielle Chapentier) だろう。この漫画のキャラクターは男女問わず人間的魅力にあふれているので、ナポ獅子上の生前の彼女の姿も見たかった。

史実のガブリエルの死因には、病死説または出産時に死亡説が存在する。死去時に妊娠していたか否かを問わず、彼女は九月虐殺(をはじめとする革命の過激化)に心を痛めたことで精神状態を悪化させ、それが死を招いたようだ*2

ナポ獅子で生前の彼女の姿や夫婦関係は一切描かれないが、2巻と4巻のダントンはほぼ別人レベルの変貌を遂げる。2巻のダントンは言動が多少下品だとはいえ、ダヴィッドの『マラーの死』制作現場の場面*3を鑑みればまだ常識の範疇にいた。

疑っている点として、あのエピソードは死体ネタの伏線だったのだろうか。まさか「マラーの死は茶化してたのに、妻の死は受け入れられない」という笑いどころ?「マラー同様、妻も死んでからの方が役に立った」可能性は、彼女にとってあまりに悲しいので受け入れがたい。

ジロンド派粛清で既に表情が曇っていたので、あの頃からダントンは革命の過度の流血に疑問を抱いていたのだろう。だが4巻で人格が変わってしまったのはやはり妻の死が直接的原因ではないだろうか?恐らく(史実とは異なり)2巻と4巻の間に(こちらは史実通り)彼女は九月虐殺に心を痛めた末亡くなってしまったのではないか。最愛の妻が死んだことでダントンは身を挺して恐怖政治を終わらせる決意をした。ちなみに史実のダントンは多分「ユーモアと愛嬌に溢れた面白い人」だったと私は思っている。ナポ獅子でも2巻時点では愛嬌や親しみやすさが推察されたが、4巻ではすっかり消えてしまった。それだけ妻の死は致命的な衝撃を与えた。

ただロベスピエールが言うように、墓掘り返し=深い人間性とは必ずしも言い切れないよなあとも思った。(その論理だと、最高の人間性を持つのはカール・フォン・コーゼルということになってしまう)エベールとの会食や前述の「なんかの罪で」という台詞を見る限り、恐らく事実だった汚職などの罪をダントンは罪だと考えておらず、したがって罪悪感もない。

一方で自己破壊に至るほど、過剰なまでに狂おしく深い妻への愛はまごうことなく示される。愛を完成させるためには自分も死ななければならない。ただ自殺するよりは恐怖政治を終わらせるために身を呈そうと考えたのではないだろうか。死に至らざるを得ないのはとても悲しいが、究極の愛とも言えるだろう。

史上最強「ではない」ロベスピエール

ロベスピエールとダントンの友情も良かった。二人の関係は政治的というより、あくまで個人としての友情が前面に出た。特にロベスピエールがダントンに死んでほしくなかったのがひしひしと伝わってきた。でもダントンには逃げる気、というよりこれ以上生きる気はなく、墓場のシーンでロベスピエールはそのことを悟ったように思える。

ロベスピエールもダントンもパブリックイメージに縛られていたように思える。ロベスピエールは「革命」であることを求められ、ダントンは「アンチ恐怖政治」さらには「生の象徴」であることを期待されていた。それでダントンは自ら死ぬわけにはいかなかったのだろう。

だから最終的にロベスピエールは盟友を願い通りかっこよく死なせてやろうとしたのではないかと私には思える。ギロチンへ送られるダントンの声を聞いたロベスピエールが意気消沈していたのは、友情より革命を選んだからというより、むしろ「かっこよく死ぬことが最適解というのは友人としてやはり悲しい、生きたいと望んでほしかった」からではないだろうか。「生きていたくない」ということは今まで作ってきた革命や共和国への否定でもある。

一方ダントンは「ロベスピエール 俺はお前と闘い お前の魂を救ってやる」と言っていたものの、その後彼がロベスピエールの魂のことを考えていたようには思えない。正直なところ言ったことを忘れているのではないかと疑いたくなる。史実で有名な「ロベスピエール 次は君の番だ」も他の場面や他の創作物と比べるとあまりにも印象が薄い。ただ例の場面を踏まえれば、「救われるべき魂はダントンの方だった」という見方もできるが。

そもそもナポ獅子のロベスピエールは「死刑」とか「私は童貞だ」ですっかりネットミーム化され、冷酷な独裁者で「史上最強の童貞」だと思われがちだ。だが本編の中の実際のロベスピエールは「史上最強」からは程遠い、ずっと苦悩する「身大の人間として描かれている。(童貞なのは事実だろうけど)「あの童貞野郎の天下じゃないか!」(フーシェ)に代表されるような「史上最強の童貞・ロベスピエール」像はあくまで他者が抱くイメージにすぎない。(ナポ獅子上の)実際のロベスピエールは特に友人たちに親身に向き合おうとする、友達思いで情に厚い人間ではないか。4巻でまだ「俺も人を捨てて革命となれ!」と言ったものの、ロベスピエールは最後まで人を捨てることなどできなかった。

また5巻のクーデターで牢獄へ移送される時に発した

私の人生には自由がなかった 幼少期は貧しく 成人してからは従うべき義務が多すぎた 革命で皆に自由をふるまい 自分も自由を味わいたかった

という台詞がとても印象的だ。特に「自分も自由を味わいたかった」という箇所に、今まで自身を抑圧し続けてきたという本音が出ていると思う。誰かがもっと早くロベスピエールにそのことを気づかせ、少しでも義務から解放できれば良かったと思う。

そもそもロベスピエールが2巻で「私は童貞だ」「私が愛するのは誰かではない 市民と革命だ」と言ったのをサン=ジュストが真に受けてしまったことが悲劇の始まりではないか。あの時誰かが「イキってんなお前」的なことを言って茶化していれば、ここまでの惨劇は避けられたのではないだろうか。

デムーランの扱いの謎

史実と異なる部分は多々あれどナポ獅子で描かれるフランス革命はとても面白く気に入っている。

ただ一つツッコミどころがあるとすればデムーランの扱いだ。2巻で「武器を取れ!」とバスティーユ襲撃を扇動した後は4巻まで登場せず、4巻ではダントンの腹心として墓場以外ほぼすべての場面で一緒にいる姿しか描かれない。しかしモブキャラというには作画や人物設定に力が入っているように思える。特に橋の上の表情なんて絶妙だ。(ちょっとヴィクトル・ツォイを思わせる)キャラクター自体はとても気に入ったので、もっと出番を増やしてほしかった。

ロベスピエールの影に隠れた感はあるものの、ダントンとデムーランの友情の描写も良かった。ダントンが法廷でキレたのはデムーランがフーキエ=タンヴィルに侮辱されたからだし、護送車の上で「すまん 怖いんだ」とギロチンへの恐怖に怯えるデムーランに対し「いいんだ 当然さ」と返すダントンの優しさも良いと思う。(特にカミーユ・デムーランに対してダントンは最後まで優しくあって欲しいと思っているので)

 

史実のカミーユ・デムーランの、フィクションで取り上げられがちな事項としては

・妻リュシルとの10年越しの恋愛と死

ロベスピエールと学友で、ロベスピエールは彼の処刑をできる限り避けようと奔走していたこと

がある。しかしナポ獅子ではロベスピエールとの親しい関係はなかったことにされた。「デムーランの女房」はサン=ジュストの台詞内に登場したものの、実際の人物としては登場しなかった。彼女が史実のリュシルのような人物かどうかは判断できず、しかも史実なら愛妻家として有名なデムーラン自身が妻について一言も言及しなかった。(史実のデムーランが取り乱したのは、自身の死への恐怖よりもむしろ、罪もないのに自分が処刑されること、リュシルも逮捕されたことへの怒りと絶望である)

もっとも、ここにデムーランのより詳細な人物描写を組み込んでしまうと、話が混線し非常に読みづらいだろう。特に「ロベスピエールとダントンの友情」を強調したい場合、「ロベスピエールとデムーランの友情」はノイズになりかねない。またダントンの盟友としてのデムーランはサン=ジュストとキャラクターが被る。

ただ史実として上記2つよりマイナーな(再読するまで忘れていた)「フーキエ=タンヴィルとの親戚関係」が登場したのは意外だった。(でも5巻のフーキエの回想に一切デムーランが登場しないのは不気味ですらある。「サン=ジュストに脅されたので泣く泣く恩義のあるデムーランを死刑にしました」と同情を買うために弁明しようとはしなかったのだろうか。)

また史実かどうか確証がないものの、フィクションでは定説扱いの「サン=ジュストがデムーラン絶対殺すマン」が反映されているのは面白かった。ダントン以外にデムーランに言及したのはサン=ジュストのみであり、「寛容委員会」設立を訴えたヴィユー・コルドリエ紙も作中ではサン=ジュストしか読んでいない。この世界線でも二人が険悪なのはどことなく面白い。(デムーランはダントンとサン=ジュストにしか見えてない説すら抱いてしまった)

あとみんな彼のことを「デムーラン」と呼び、一度も「カミーユ」というファーストネームが登場しないのも新鮮だ。史実では皆彼のことを「カミーユ」と呼んでおり、直接面識がない(と本人が書いている)ロラン夫人まで回想録の中で「カミーユ」呼びである。またビューヒナー『ダントンの死』をはじめ大抵の創作物でも彼は「カミーユ」と呼ばれて、台本でも一人だけ「カミーユ」と指される。なんで一人だけファーストネーム呼びが定着したのかも疑問だが、この話はまた今度。

 

追記(2/12): 10巻でスタール夫人(ネッケルの娘)の説明時に、1789年7月12日のデムーランが再登場した。作者は彼を気に入ってるのか?

10巻は4巻で名前だけ出てきた、ダントンやデムーランの友人ギヨーム・ブリュヌ将軍(のち元帥)も登場しニヒルでかっこいい活躍を見せる。ブリュヌは背が高い設定だが、ダントン派が並んだらスポーツチーム並の長身集団だったのかと想像すると面白かった。(デムーランの身長はどれくらいなんだろうか。)

 

『ナポレオン獅子の時代』のフランス革命が面白いことには変わりない。史実との相違点は多々あるものの、大学受験で出題されるレベルの大筋は概ね史実通りである。(6巻以降の出来事は史実に明るくないので、史実との相違点は分かりません)

私は読み返してハマってしまい、『覇道進撃』の最新刊まで読み通そうとしている。だが10巻以上の漫画を読破したことがないので、ちゃんと読み通せるのか不安である。プルースト失われた時を求めて』を読破した時のことを思い出して楽しもう。

*1:ただそんなに愛してるなら墓に置いたままにせず家に連れて帰るべきではないかと思ったが、家にも監視がついているため墓の方が安全だった可能性も考えられる

*2:信憑性はさておき、ミシュレ『革命の女たち』Les femmes de la Révolution の彼女に捧げられた章を読むと自殺同然の死とすらと感じる

*3:史実のガブリエルは美術界との縁が深い。彼女の弟フランソワ・ヴィクトル・シャルパンティエの妻はダヴィッドの弟子の画家、コンスタンス・マリー・シャルパンティエである。またガブリエルとヴィクトルの兄アントワーヌ・フランソワ・シャルパンティエは画家ユーグ・タラヴァルの未亡人、アンジェリック・エベール(多分ペール・デュシェーヌとは無関係)と結婚した。この三兄弟の叔父にはパステル画家がいた。このことを踏まえるとダヴィッドとダントンの関係はさらに興味深い。