Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

虚無の「英雄」と女性の声 - 『ダントン』(1983)

映像ソフトを購入したものの長らく見れていなかったアンジェイ・ワイダ監督の『ダントン』(1983) をやっと鑑賞できた。

監督:アンジェイ・ワイダ

出演:ジェラール・ドパルデュー(ダントン)ヴォイチェフ・プショニャック(ロベスピエールパトリス・シェローカミーユ・デムーラン)アンゲラ・ヴィンクラー(リュシル・デムーラン)etc. 

filmarks.com

反「英雄」的ダントン像

ダントンが恐怖政治に抗ったヒューマニズムの英雄として手放しに肯定的に描かれているというわけではないのがまず驚きだった。「ロベスピエールを当時のポーランド独裁政権トップに、ダントンをワレサが属した「連帯」のリーダーになぞらえたと言われる」という前情報を耳にしたので、もっとダントンに同情的な作品かと思っていた。

しかし本作のダントンは恐怖政治に抗った英雄というより、民衆人気はあるがその内面は空虚な人物であるように感じた。ロベスピエールが独裁者になるまでの苦悩が丁寧に描かれるため、中盤までダントンに肩入れできなかった。「悪役はダントンなのでは?」と疑ったほどだ。「Stop恐怖政治」のメッセージは真っ当だが、特に前半はダントン自身に言われているようなカリスマが感じられない。
例えばロベスピエールとの会談で発された

君はみんなを高みまで連れて行こうとするが、そこではみんな息ができない

というセリフそのものは理にかなった名言だ。だがいかんせん発言者の態度に説得力が感じられない。映画が後半に入り、裁判の弁論でダントンはやっと圧倒的カリスマ性を見せる。熱のこもった弁論を聞いてようやくダントンが民衆に人気があるという設定に納得がいった。しかし同時に、ダントン自身は弁論内容をそのまま信じているわけではないとも思った。
ロベスピエールカミーユに「ダントンは自分の野心のために君を利用している」と言う場面がある。だがダントンはロベスピエールが言うような野心すら持っていたのだろうか?「民衆の人気を獲得したい」という願望や「自分は強いのでロベスピエール公安委員会は殺せないだろう」という慢心は感じられても、「絶対に権力や富を手に入れてやる」というような強い野心や欲望は感じられなかった。映像ソフトのパッケージ紹介文

民衆を愛し、愛された豪放磊落な革命家ダントン
国のため命をかけ、信念を貫いた苛烈な半生

は詐欺ではないかと言いたくなるほどだ。

虚無を抱えるダントン像はビューヒナー『ダントンの死』でも描かれた。だが後者には妻ジュリーとの宿命的な愛が一種の救いとして存在し、仲間たちとの間にも温かい友情が認められた。しかしこの映画では人間関係は救いや癒やしを一切もたらさない。和解のためだったはずの会談でダントンはロベスピエールをおりょくり続け、カミーユ・デムーランを始めとする仲間たちにも高圧的で妻との関係も冷え切っている。

牢獄で他の囚人が発した「俺は死ぬがお前も死ぬ」という言葉に彼が凍りつく場面でも、ダントンに注がれた制作側の厳しい目線を感じた。自分は民衆全員から愛されているわけではないことを思い知り、「自分が殺されるわけがない」という慢心が打ち砕かれ、処刑の可能性を感じて戦慄したのだろうか。あるいは恐怖政治や流血の責任に関して自分は決して無実ではないことを改めて思い出したのだろうか。
髪を切られ、処刑台へ送られるダントンは自分が死ぬことで恐怖政治が続くことへの絶望ではなく、むしろ自分の人生は結局のところ空虚だったことに対する悔恨を感じた。うなだれるダントンは、「自分の人生は一体何だったのだろうか」と自問するようだ。裁判の場面までの熱気や言葉、感情のぶつかり合いとは異なり、判決から処刑まではベルトコンベアに乗せられたように淡々で無感情に描かれる。これはダントンが自分の人生は実のところ空虚だったことを思い知った感情とオーバーラップしているのではないかと感じた。

このようにダントンは英雄というよりむしろ「口ばかりで無責任であり、民衆の支持や政治仲間は得ているものの本当は何も信じていない、その内面は空虚な人物」とすら描かれているのではないだろうか。

女性の声と抵抗

カミーユ・デムーランの妻リュシルの描き方に新鮮さを感じた。他の作品のリュシルは夫の意見に盲目的に賛同し、夫の助命のための軽率な行動で自身も逮捕されるような、ともすると可愛いが愚かな妻として描かれる傾向にある。それに比べると本作のリュシルは他の作品よりも理知的で力強い。

この作品では「蔑ろにされる女性の声」が強く印象に残った。冒頭で民衆に歓迎されるダントンに妻(ルイゾン)が何か訴えかけるが、ダントンは耳を貸さない。彼女の音声も消されているため、観客も彼女が何を求めているのか知ることができない。また深夜に家を訪れたロベスピエールカミーユの決裂を目の当たりにし、それでもリュシルは和解を呼びかける(だが二人が彼女の声に応じることはない)。夫に対するリュシルの強い愛情はひしひしと伝わってくるが、カミーユの方は彼女をぞんざいに扱っているのではないか。

だがリュシルの存在感は話が進むごとに強まる。一度はつまみ出された法廷に入ってパニスルジャンドルと共に被告の無罪と公安委員会や革命裁判所の非道を訴えるリュシルの姿はカミーユ個人に向けた愛を超え、独裁や恐怖政治に対する抵抗のシンボルとなったように私は思った。また(史実とは異なり)最後までリュシルが捕まることはない。夫たちの処刑を見届けた彼女がギロチンを見つめ首に赤い糸を巻く絵*1は過剰な感傷が排されただけいっそう印象的であり、史実の彼女のように殉死するよりもあくまで生きて圧政に抗うべきだというメッセージを受け取った。

---

ウィークポイント

以下はマニア的な細かい指摘だが、腑に落ちない点がいくつかあったので。

私は原作『ダントン事件』(の英訳およびフランス語訳)を断片的に読んだことがあったので理解できたが、映画のみでは意味不明だと思われるシークエンスがあった。例えば、

・逮捕直前に寝室で手に触れたダントンを怖がる妻ルイゾン

夫の逮捕に何も感情を動かさない妻と「隠し場所の金はやる」とだけ言い放つ夫の描写から夫婦関係が冷え切っていることが伝わる。原作ではこの結婚は彼女にとって望まぬものであり夫を忌み嫌っていることが明示される。しかし映画では二人の関係は全くと言ってよいほど掘り下げられず、さらにこれ以降の場面にルイゾンは登場しない。そのためこの場面は宙吊りではないか。ただし前述したようなダントンの内面の虚無はよく示されている。

カミーユがダントンに「君のために死ねると言ったが撤回させてくれ」という場面

この場面だけではカミーユが単なる地雷系かまってちゃんのようだ。もっともカミーユロベスピエールに対する拒絶はあまりに幼稚であり、『ヴィユー・コルドリエ』紙の印刷所破壊に対する抗議というよりも個人的わだかまりが主因だろう*2。最後まで友人を救おうとするも、当のカミーユには拒絶され続けるロベスピエールの姿は哀れでやるせない。
一方ダントンはロベスピエールを徹底的に拒絶し続けるカミーユに対し「ロベスピエールに助命してもらえ」と度々言う。しかしダントンはカミーユの命を心配してそう言ったのではなく、カミーユロベスピエールをおちょくって冗談を言うに過ぎない。ダントンが彼らを茶化す理由としては

カミーユの相手が面倒臭いから(ダントン派の一員フィリポーもカミーユをウザがる場面がある)

カミーユが選ぶのは自分だと確信しているから

あたりだろうか。

(後述のように)ロベスピエールに肩入れした原作の結末では、処刑台へ向かうカミーユが「貴様が騙したせいで僕はロベスピエールと引き離された!」とダントンを非難する。だが映画ではダントンとカミーユの仲は決裂しない。そもそもロベスピエールが言うようにダントンにはカミーユを利用したにすぎないのか、あるいはカミーユに友情を感じていたかどうかは判断できない。史実は知っているが、この映画の世界における革命の経緯が見たい。三人に限らず、この映画におけるほぼ全ての人間関係はどうしてこれほどまでにこじれてしまったのだろうか。

話は逸れるが、ロベスピエールやダントンに対しては子どもじみた振る舞いを見せたカミーユ・デムーランが死刑判決には(史実のように)泣き叫んで抵抗せず、従容と死を受け入れたのも意外だった。ただどうやら史実のカミーユの抵抗は自分の処刑よりもむしろリュシルの逮捕を受けてのものだったようなので、彼女が逮捕されない本作においてカミーユが抵抗する理由はないのかもしれない。

 

原作者スタニスワヴァ・プシヴィシェフスカは明らかにロベスピエール贔屓であり、原作の戯曲も「革命の理想に身を捧げた善玉ロベスピエールvs. 革命を利用して自分の欲望のみを実現しようとする腐敗した悪玉ダントン」という図式の元で執筆された。しかし映画は「一応」ダントン側に肩入れして制作されたので、おそらく原作からそのまま持ってきた上記の場面は映画全体と不調和を起こしているのではないだろうか。
だがロベスピエールを単純に冷酷な独裁者として描かずにその苦悩を丁寧に描いた点は、プシヴィシェフスカを原作に選んだことでもたらされた長所だと思う。ロベスピエールは横暴な独裁者へと変貌するものの、その懊悩は最後まで同情を誘う。だから他のレビューの多くで「冷酷な独裁者ロベスピエールvs. 人間味あふれるダントン」のように書かれているのを見て私は首を傾げている。人間味が感じられるのはむしろロベスピエールの方ではないか。

 

もうひとつ難点としては、音楽が過剰なまでに恐怖心を掻き立て、ホラー映画のようになってしまった点だろう。ダントンやカミーユの霊がベッドでロベスピエールの足を掴んで「ぎゃあ」という結末ではないかと期待したほどだ。私はロジェ・ヴァディム『血とバラ』...Et mourir de plaisir の音楽が大好きなのだが、どちらのサントラも同じ人(ジャン・プロドロミデス)が手掛けたと聞いて驚愕した。どうして『血とバラ』、特にクライマックスのLa glace brisée は耽美と切なさに満ちた魅惑的な音楽なのに、『ダントン』では無意味なほど恐怖を強調してしまったのだろうか。

www.youtube.com

もっと余談。CDとして、『ダントン』と『血とバラ』(+他1作品)のサントラが一枚で売られていたことがあったようだ。現在は絶版だがぜひ手に入れたいものである。パッケージは『ダントン』(というかドパルデュー)を全面に押し出しているが、私としてはもっと『血とバラ』成分を入れてほしかった。版権の関係で難しいなら、せめてパッケージ裏はカミーユ・デムーランにするとか...カルミラと響きが似てるんだから...

 

 

*1:実際はテルミドール後に行われた、ギロチンの犠牲者遺族が参加した「犠牲者の舞踏会」で行われた慣習だという。史実のリュシルはカミーユの処刑時にはすでに逮捕され数日後にギロチンに送られたので、当然「犠牲者の舞踏会」には参加していない。

*2:例えばリュシルはロベスピエールカミーユを和解させようと最後まで試みている。もし出版妨害という政治・思想的理由のみでカミーユロベスピエールをはねつけているのなら、リュシルも同調してロベスピエールを家から追い出すのではないだろうか。