Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

あの子は弱いからこそ強いんだ- ロマン・ロラン『ダントン』感想

今回はロマン・ロランの戯曲『ダントン』の感想。

同じ題材でもビューヒナー『ダントンの死』やアンジェイ・ワイダ監督の映画『ダントン』(原作はスタニスワヴァ・プシビシェフツカの戯曲)の影に隠れている感の強い(そもそもロマン・ロラン自体最近の日本のフランス文学界で影が薄い)この戯曲だが、フランス革命に興味がある人にとっては面白いのではないか。もちろん文学史的価値としては「フランス革命劇」連作における「民衆の声の重要性」などの方が高いんだろう。だがこれはアカデミックな書きものではないので自由に語る。

ダントンは何をしたかったのか?

久しぶりに読んだ印象として、まずはダントンがかなりひどい奴だと思った。自分の人気と能力を過大評価し周りにも偉そうでカミーユが自分の思い通りにならないと怒鳴り付けるとんでもない暴君ではないかと。しかしよく読むと暴君的ダントン像は自己演出の結果で、本当のところの彼はビューヒナー『ダントンの死』同様、この作品でもかなり疲弊している。そして本人は以下のセリフのように度々「もう疲れた」とわかりやすく言っている。だが周りは全く取り合おうとせず「男らしい英雄像」を彼に押し付ける。

どうして俺が必要なのだ。俺はいつも、何もかもやらなきゃならんのか。君たちは相変らずの土偶ばかりだ。(...) そのうえ俺は馬に乗って、彼 (ヴェスターマン将軍)の代りに剣を振り廻さなきゃならんのか?(p. 19.)

またロベスピエールとの対決がもはや避けられなくなっても、戦いの準備を求めるカミーユ(とリュシル)に対し「明日にしよう」と先延ばしにする。これも自己の過大評価に加え、ある種の破滅願望すらうかがえる。

ただし彼の言行は首尾一貫していない。自分の人気への過信と革命への愛、疲労や破滅願望が切り分けられないほど混ぜこぜで、本人含め誰も本当のところ彼は何がしたかったのか理解していなかったのではないか。

死刑判決を受け入れた時のセリフも、耳障りは良いがよくよく考えてみると唐突だ。

なあに! おれは何も後悔しない。 おれはこの女(注:革命のこと。La Révolutionは女性名詞)を愛している。こいつのためなら、おれは恥辱を受けても満足だ。「自由 (注: フランス語のLa Libertéも女性名詞)」を抱きしめることもないような気の毒な奴らをおれは憐れむ。一たびこの神聖な売女と唇を合せたからにはもう死んでもいいはずだ。 生きた甲斐はあったのだから。(p. 92) 

革命で大活躍するも死刑になる者の台詞としては切なくも爽やかだが、これまでの展開を考えると急に出てきた感が否めない。今までの弁舌はすべて演技だったのか?続編『ロベスピエール』の冒頭は何だったんだ?

弱き者の絶望の叫び

本作ではタイトルのダントンよりもむしろカミーユ・デムーランの方がロベスピエールのみならず、民衆の共感をより強く得ている。誰も実際に助けに行かなかったが、裁判の混乱の中では

やめろ、やめろ、そりゃ無茶だ、卑怯だぞ!ひどいじゃないか、そのままにしてやれ、彼(カミーユ)を処刑するんじゃないぞ!(p. 90) 

という声すら上がっている。また続編の戯曲『ロベスピエール』の冒頭ではギロチンへと運ばれるダントンやデムーランと、下宿に隠れるロベスピエールの姿が以下のように描かれる。

デムーランの声: 助けてくれ! 助けてくれ! ぼくはきみの友人だ!

ダントンの声:  卑怯者、黙れ! おまえはおれらの名誉を汚すのか......

デムーランの声:  後生だ! 助けてくれ! 助けてくれマクシミリアン!

(ロベスピエールは窓の方へ行く動作をする。 デュプレ(注:ロベスピエールの下宿の主人)が彼の面前に出て、愛情をこめて、彼の両腕をとる)

ダントンの声: 無駄な涙を流すな。鳴き声 (sic. ) なんか立てないで、奴の面へ死のつばをひっかけてやれ!

デムーランの声: 屠殺屋! 屠殺屋! (ひとごろし、とルビ) お前はおれたちを殺すのか!……お前におれの首を投げつけてやる… おれの血をなめるがいい! (p. 107)

カミーユの絶望の叫びは、徹底的に無視してやりすごそうとしたロベスピエールを打ちのめした。それはカミーユマクシミリアン・ロベスピエールが単に学生時代からの親友だったからというだけではなく、この絶望の叫びがあまりにもすさまじい力を持っていたからではないか。

史実でもカミーユの最期の様子は多くの人の心を揺さぶった。ラマルティーヌは『ジロンド派の歴史』の中で、連行される時の彼の叫びを「デュ・バリー夫人の連行以来、人々はこのような凝視できない苦悶の叫びを聞いたことがなかった」と記す。(ミシェル・ビアール、『自決と粛清』p. 55. 参照)

カミーユはみんなに愛された人物だった。例えばミラボーは手紙の中で「すぐかっとなる性格だが、それでもお前はみんなに愛されるだろう」と評した。テルミドールのクーデターはたしかに保身から行われただろうが、それに加え粛清された仲間たちの敵討ちという側面もあった。ロベスピエールらを引きずり降ろした一連の動きに、カミーユの処刑とその絶望は寄与しているのではないだろうか。

そういう意味で、本作のカミーユは『キャリー』や『ワンピースフィルムレッド』のウタ(そういえば彼女はルフィの幼馴染だ。ということはロベスピエール=ルフィ?笑)のご先祖様とも言えるのかもなぁと思った。彼女たちは身体的にも境遇的にも弱い存在だったが、感情の昂り(=絶望)が生み出した超能力で圧倒的な力を得る。カミーユは超能力こそ使わないけど、あの叫びは念力やトットムジカに近いものがあるんじゃないかと思った。女性ではなく線の細い男性ということなら、タイトルロールを上回って観客に強烈な印象を残す『カリガリ博士』のチェザーレも似たような存在じゃないかと思う。ちなみにロマン・ロランの戯曲の内容が大いに反映されている(ビューヒナーよりこっちが原作ではないかと疑うレベルの)1921年の映画『怪傑ダントン』カミーユはチェザーレの類型だと、演じたオシップ・ルニッチに関する論文で言及されていた。

超越的な英雄ではない、残酷なほど無邪気で軽率、だがこれまでの政治闘争の中で良心の呵責を抱えており、危機には弱気になるカミーユには、だからこそ求心力があったのではないか?日本初のアイドル明日待子を題材にしたドラマ「アイドル」では

お前はスターでも女優でもない。アイ・ドールだ。未熟で等身大のお前たちを学生は応援してるんだ

というセリフがあったが、カミーユも「未熟で等身大」だからこそ支持を得ていたのではないか。

佐藤賢一『小説フランス革命』でもロベスピエールが「カミーユの美徳は弱さだ」と言う場面があったような。そこで私はチェーホフ「かわいい女」のオーレンカを思い出した。)

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本作のダントンは自分より注目を集めることができるカミーユに嫉妬していたのではないかとすら思える。例えば裁判で、

ダントン(小声でデムラン (sic. ) に)黙っていろ、ばかめ! 君はおれの庭へ石を投げ込むようなことをする。

カミーユ(おどろいて) どうして?

ダントン いいからおれのいうとおりにしろ! (p. 84)

この場面でカミーユは一緒に裁かれるフィリポーを援護したのだが、何回読んでもカミーユの発言がダントン派をそれほど不利にするとは思えない。カミーユだけでなく、読者も(おどろいて)「どうして?」である。やはりダントンはカミーユの人気に嫉妬していたのではないか?もしかすると、「人間味あふれる強くて男らしい革命家」でい続けなければならないダントンには、弱さや情けなさを躊躇なくさらけ出せるカミーユがうらやましかったのかもしれない。

また彼らの間には嫉妬や羨望、抑圧のみが存在するわけでもない。みんなが思っているほど強くはないし疲れきっていたダントンは友人のカミーユに甘えてもいる。

カミーユ、やはり俺を責めたいんだろう。顔にそう書いてあるぞ。さあ遠慮することはない。君は俺を臆病だと言うんだな? ダントンは口腹の欲のために友人や名誉を捨てると思っているんだな? (p. 24.) 

「そんなことないよ」と言ってほしさが見え見えである。一見するとカミーユがダントンに依存し、ダントンはカミーユに庇護を与えるようだが、実のところダントンの方もカミーユに依存している。

ロベスピエール』の冒頭で、ダントンがかつての友人へ向けた呪いの言葉をカミーユに吐かせるのはあまりに残酷ではないかとも思った。自分は死を受け入れた上でパフォーマンスとしての怒号だから良いとしても。他の作品、例えば『ナポレオン 獅子の時代』や『小説フランス革命』、あるいは『ダントン』の題のいくつかの映画でも、もっとダントンはカミーユの恐怖を受け入れた上で優しさを見せているのに。だがダントンが自己演出に飲み込まれたと考えれば、カミーユに呪いの言葉を吐かせた苛立ちやヤケクソ感も分からなくはない。

必ずしも「男らしく」力強い「英雄」ではなく、弱い存在が発する真摯な叫びの方が人々の心を捉え、感情を揺さぶることをロマン・ロランは分かっていたのではないか。

リュシル・デムーランは「軽薄で愚かな良妻」か?

この戯曲のリュシルの印象について。初読時は「愚かなまでに軽薄で夫に対し盲目的」と思っていた。だが何回か読んでいくうちに、リュシルはカミーユが抱える残酷さと悔恨を理解しており、その上で彼をかばってあえて愚かなまでに明るく振る舞っているのではないかと思った。ロベスピエールが家にやってきた時は、自分なりになんとか状況を改善させるため、二人の仲を取り持とうと努力する。史実の彼女の日記を読んだ上でこの戯曲を読むと、リュシルは「軽薄なかわいい妻」をあえて演じているのではないかと思う。

またエローとの以下のやりとりも、彼女の表面上の軽薄さと内面の考えを示しているように思う。

エロー もちろん言いますとも。この坊やはね、われわれみんなのうちで、おそらく一番残酷ですよ。

カミーユ もう言わないでくれ、エロー。俺はそう信じてしまいそうだ。

リュシル(エローに、彼を指で脅かしながら) ほんとはそうじゃないっておっしゃい。さもないと、あなたの眼を刳りぬいてしまいますわよ。

エロー じゃあよろしい、それは本当じゃない、いちばん残酷なのはあなたです。

リュシル いいわ! あたしはそれでいいことよ。(pp. 14-15)

カミーユから離れたリュシルの心情吐露や独白の場面が存在しないので、この作品のリュシルがどんな人物なのか決定的なことは言えないのだが、それでもリュシルは「軽薄で愚かな妻」ではないと感じた。

あとは本作のリュシルはわりとはっきりダントンのことを嫌っているような気もして面白い。ヴォルテールラ・ピュセル(暴露版ジャンヌ・ダルク)』を巡るやり取りなどは、当時の女性が性的・風刺的な本を読むことの扱い(さらには「読書」という行為の扱い)について考えさせられる。史実のリュシルは、当時としてはかなり高等な教育を受け、本人も文学や古典・歴史を好んでいた。

その他

あれこれ書いたが、この戯曲で一番好きな場面は裁判でカミーユが喋れなくなってしまった時にダントン、エロー、ファーブル・デグランティーヌ、フィリポーが彼をかばう場面だ。特にファーブルのこの台詞が気に入った。

貴様はデムーランが神経質で感じ易いってことを知っている。そういう弱味につけ込んで彼の首を絞めようとするんだな。おれたちが生きているうちは、そんなことはさせないぞ。(p. 72) 

詩人・劇作家のファーブル・デグランティーヌは革命暦の月名(テルミドールとかジェルミナールとか)を考案した一方、東インド会社精算事件を始めとする汚職や公金横領の噂に事欠かない人物でもあった。しかしそんなファーブルが友達に対して思いやりを見せるのが良いと思う。

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今回の底本は『ロマン・ロラン全集』11巻, みすず書房, 1982年で、『ダントン』は波多野茂弥訳、『ロベスピエール』は宮本正清訳。『ダントン』はWikisourceで原文を適宜確認したが、『ロベスピエール』は著作権の問題か、少なくともネットでは原文がなかったので未参照。