チェリーメリー・ストロベリーを撃て

フランス革命萌え語りとか映画や本の感想など。

2024年ベスト映画

2024年はなんだかんだいろいろと素敵な作品に出会えたので、まとめてみる。

まずは映画編。

劇場公開編

ドゥーム・ジェネレーション

The Doom Generation (1995), グレッグ・アラキ監督

よく行く映画館のウェブサイトをスクロールしてたらたまたま目に入ったので鑑賞。無知なことにグレッグ・アラキ監督の存在を知らなかった。

結果ドンピシャでした。「ヘテロセクシャル映画」とわざわざ銘打っているだけあってものすごくクィア。正直なところ「クィア」という言葉が意味するところを掴めていなかったが、この映画を見て「クィア」であると感じた。

画(特に赤の使い方)、主人公3人組の容姿や性格やファッション、物語の展開などすべてが好みだった。ジェームズ・デュヴァルめっちゃいいな。男2女1で同性愛的というと女性がないがしろにされる傾向があると思っているが、本作はその罠に陥っていない。エイミーは面白く立体的な人物として丁寧に造形されていたと思う。

映画を見すぎた(とはいえ70本も見ていないが)せいか、性行為の場面に突入すると冷めてしまい「もういいよ」と思うことが多かった。だが直接的なセックスのみならず全編を覆うセクシュアル・テンションに対して、久しぶりに映画に対し「エロい...!」と感じた。使う当てもないのにコンドーム入りケースを買ってしまった。ケースはイヤホン入れとして活用しているが、中身は部屋のどこかに消えた。どこやったっけ?

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ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン

Vampire humaniste cherche suicidaire consentant (2023), アリアーヌ・ルイ=セーズ監督

こちらもまず雰囲気がツボ。軽薄に思われるかもしれないが、ファッションって大事だと思う。

あらすじだけ読めばガール/ボーイ・ミーツ・ボーイ/ガール的な物語展開ではあるものの、ドゥーム・ジェネレーションとは異なりほとんどセクシュアル・テンションは感じなかった。サシャとポールは恋愛とも非恋愛的関係とも読むことが可能ではないだろうか。私はAro/Aceではないが、それでも恋愛の押し付けがないのが心地よかった。

殺人をためらう吸血鬼が主人公である点や相手役の男子の容姿や性格などは『ビザンチウム』と似ているが、本作はユーモア(クラスメートへのポールの復讐など)により過度な悲劇に陥ることを上手く避けていると思う。

フランス語映画(ケベック制作)と知らずに観た。どうせなら邦題も原題のフランス語にすれば良かったのに。

東海地区で公開ないのかと思っていたら、ハロウィン時期にシネマスコーレにて上映。名古屋に10年近く住んでいるが、実はスコーレには今まで訪れたことがなかった。小さな映画館だが、椅子の座り心地が良い。

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既発編

薔薇のようなローザ

Rosa la rose, fille publique (1986), ポール・ヴェキアリ監督

2024年はマリアンヌ・バスレールに出会うことができたのが一番の収穫かも。LRFのガブリエルがあまりに美しく愛らしく、彼女に対する恋心が抑えられないほどだったが、演じたバスレールも唯一無二の存在である。にもかかわらず、日本ではほとんどの出演作が公開・ソフト化されていない。あってもVHS。

日本語字幕が期待できず英語字幕もあればいい方なので、フランス語の聞き取り能力が向上した(気がする)という嬉しい副産物も。バスレールの低めの喋り方が好きすぎて真似していたら、発音が良くなったとネイティヴに褒められた。

『密室の渇き』も好きだけど、映画としては『薔薇のようなローザ』が一番良いかな。レナート・ベルタのカメラワークは最高。

「ローザ」という源氏名も部屋のディスプレイもすべて女衒のベルナールから与えられ、自我もロクに持たないまま娼婦としての仕事に適応するローザが、労働者ジュリアンとの出会いをきっかけに恋心=自分の感情に目覚める話。ローザは自身が娼婦を辞めるのは非常に難しいと悲観するが、ベルナールはじめ周りの人々はみんな彼女の幸せを願っていた。だがローザはそのことに気づかず、ゆえに不要な悲劇を引き起こしてしまう...

ローザ=バスレールの表情の動き、特に絶望的なラストに心打たれて、観てから一週間のあいだ思い出しては泣き出してしまった。

ヴェキアリの4Kレトロスペクティブでもやって劇場公開してくれないかな。

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連隊長レドル(レードル大佐)

Oberst Redl (1985), サボー・イシュトヴァーン監督

LRFではダントン役クラウス・マリア・ブランダウアーに出会えたのも大きな収穫。誰がなんと言おうがダントン夫妻役のオールタイム・ベストは彼らである。

だがブランダウアーもまた、日本語でのソフト化に恵まれないのが非常に残念。名優なのに!!!サボー・イシュトヴァーン監督作品のうち『ファウスト』も本作も海外版ブルーレイを購入して見た(『ハヌッセン』も観たいが、入手が難しそう)。ドイツ語もハンガリー語も分からないので、本当にオリジナル台詞の意図するところを受け取れたのか疑問だが...

映画史的には『ファウスト』の方が評価が高そうだが、私は『連隊長レドル』に打ちのめされた。2023年は『私、オルガ・ヘプナロヴァー』に打ちのめされたが、同じ衝撃を受けた。自室のベッドに倒れ込んだまま、1時間近く動けなかった。それだけブランダウアーが見せるレードルという人物の痛々しさが心に残る。この人の人生は一体なんだったんだろう。直接の破滅をもたらすきっかけが(スパイのヴェロッキオを紹介した)、幼い頃からレードルに共鳴し、彼を助けたいと思っていたカタリンであるのもあまりにも悲しい皮肉。クリストフはレードルの思いに気づいていたのか否か。私は気づいていたが、応えられないのがクリストフなりに苦しかったのではないかと思っている。教会でクビニ姉弟の写真を燃やした時点で自分の末路は分かっていたはずなのに、自殺するまでしばし逡巡するのもとにかく痛々しい。

もっともレードルの出身などはほぼフィクションで、史実のアルフレート・レードルとはかなり異なるらしい。それでも、作品としての価値が毀損されるものではないと思う。

やっぱりブランダウアーは後ろ暗い人物の絶望と憤りを演じさせると絶品。だから映画のバイアスや史実との乖離(身長など)私のベスト・ダントンは彼だ。LRFの裁判の場面はテルミドリアン的だと批判する人も少なくないが、あの場面は「ダントンは正義の英雄(かつロベスピエールは冷血独裁者)」ということを主張したいのではなく、「汚職も裏工作も流血にも関与したが、それでも革命のために献身したと自分では思っている」者の絶望的な咆哮だろう。

『連隊長レドル』もLRFも声が吹き替えなのが本当に惜しい!声も含めて演技なのでね。

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(『メフィスト』『コンフィデンス』含む予告編)

この記事で挙げた4本はすべて私のオールタイム・ベストに入るくらい印象的な映画だった(来年の今頃も同じことを言っているかもしれないが)。とても大収穫な一年だったと思う。

ジェーン・バーキン「18-39」和訳

ジェーン・バーキンの「18-39」を和訳してみた。

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ノリが良くて気に入っていたが、歌詞を見たらルイ=フェルディナン・セリーヌの世界観だと気づいた。『夜の果てへの旅』のミュジーヌあたりが歌っていそう。セリーヌには「敗残の巨人」「呪われし暗黒世界」的陰惨なキャッチコピーがつけられているが、意外とセリーヌ作品は明るく騒々しく、残酷だが楽しくもある(のでみんな読もう。『戦争』はフランスで『ONE PIECE』より売れたよ!)

おそらく作詞者はセリーヌを含意してはいないだろうが...

タイトルは第一次世界大戦終結(1918年)と第二次世界大戦の開戦(1939年)までということでそのまま戦間期を指すのだろう。徴兵年齢も含意されているのかとも思ったが、正確なところはざっと調べても分からなかった。

「18-39」

●ここで踊っていた人たちはみんな
今はもうここにはいない
彼らは死んで埋められた、みんなくたばった
なんてことはない、真新しいことでもない
戦間期には
みんなくたばっちまうって決まってるんだ

★ワン・ステップとブラックボトムを踊ろう
酸っぱいワインにド・ディオン=ブートンの車
オンボロ車のタイヤは全部パンク
人生なんてそんなもんさ
いつでもそういられるわけじゃない
そう、みんな最後にはくたばってしまうんだ

もちろん全滅ってわけじゃない
だけどみんな死んでしまったようだ
半分くたばっちまったようなもんさ
医者は最善を尽くす
奴らをちょっとでも生き延びさせるため
それでも近いうちみんなくたばっちまう

★くりかえし

● くりかえし

★くりかえし

もとの歌詞(フランス語)はこちらから。

映画 La Révolution Française(1989)感想

フランス革命映画の代表作といって良いはずなのに、フランス革命に関心が高いはずの日本ではなぜか未だ(2024年11月)未公開・未配信/ソフト化のLa Révolution Française (1989、通称LRF)。欠点も少なくないが、現時点でこれが革命映画のベストだと思う。

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英語字幕付きでyoutubeに公開されていた。

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原作読んだ後のアンジェイ・ワイダ『ダントン』感想

アンジェイ・ワイダの『ダントン』は一年ほど前に感想を書いた。一時期は「好きな人物をめちゃくちゃに描きやがって」「バイアスかかりすぎやろ」とクソ映画扱いするほどに恨みを抱き、原作の戯曲を読んだあとは「原作とも違うじゃないか」と憤りを高めたが、改めて見返すと「これはこれで良いんじゃない?まあ宣伝文句は全く合ってないが」くらいの気持ちに落ち着いた。同じくワイダ監督の『約束の土地』を観て「この監督の映画そのものはむしろ好きでは?」と気付いたのも要因の一つではあるのだが。

(そういえば、最近(2024年7月)この映画の映像ソフトが安くなっていた。この記事では文句ばかり言っているものの、絶版する前に買う価値はあると思う)

一番の変更点はやはりダントンの人物像だと思う。単に悪党が英雄になったというより、根本的に性格が変わっている。原作は「悪行は重ねたが、傷つけられた魂を抱えて苦しんでいる人物」だが、映画は英雄というより「疲れきっているものの、承認欲求に溺れたインフルエンサー」のように私には思える。演説もほとんど心に響かなかったし。

それに付随し、カミーユ・デムーランを巡る人間関係も大きく変わっている。作者が同性愛的力学を採用した原作の人間関係において、デムーランはロベスピエールを愛しているが、冷淡に見える彼の態度が耐えられなくなったため*1、甘やかしてくれるダントンをいわば「都合の良い男」扱いする。カミーユの心がロベスピエールにあることに気づいているダントンは彼を道具扱いしているように振る舞っているが、内心はカミーユを愛しているため深く苦しんでいる。

だが映画はダントンはカミーユにさして興味がなく、反対にカミーユがダントンへ一方的な片思いを寄せるように感じられる(つまり、原作と矢印が逆)。

深夜にダントン宅に押しかけ、リュクサンブール牢獄で一目散に駆け寄ってくる*2など、色々とカミーユの思いを物語る箇所はある。だが私が再見して一番それを感じたのが、ロベスピエールが会いに来たことを知ったカミーユが「会いたくない」と言い、ジョルジュに「これで良いんだろ?」とでも言わんばかりの目線を向けたところだ。

自身を救いに来た旧友ロベスピエールを拒絶したのはダントンのためであるかのようになっている。

一方ダントンはそれまでカミーユのことを若干ウザがっていたのに(それ自体は責めるつもりはないし、正直なところ私もそう思った。)、ロベスピエールへの当てつけや嫌がらせとして「カミーユはお留守だって!ガハハハハ」と大声で囃し立てる。カミーユが生きたがっていたこともロベスピエールの愛情も目の当たりにした、フィリポーの絶望した顔との対比も相まって、単に嫌な奴に思えてくる。(その意味で、ロベスピエールの「ダントンの友情は偽りだ」との言葉は正しかったのでは...?とすら思った)

この映画はダントンとカミーユのセットには重きを置いていない(1989年の映画『フランス革命』(以下LRF)と比べると明確である)。処刑の場面でも一応並んでおり、その配置は宣材やスチル写真で用いられてはいるものの、映画本編のこのシーンでカミーユはほぼ映らない。そもそも、デムーラン自体が裁判よりあとは特にほとんど重きを置かれていないのだが。

さて、ダントンが嫌な奴説その2。牢獄で、ある男が彼を捕まえ「革命裁判所の創設者も裁判にかけられるなんて、正義はあるんだな!俺も死ぬがお前も死ぬんだぞ」とあざ笑う。最初に観たときは、ここでダントンは民衆全員に愛されているわけではないことを知り落胆したのだと思っていた。だが見返すと、ダントンの耳にはこの男の言葉が何ひとつとして入っていないように思える。友を気遣いこの男から引き剥がそうとするカミーユやフィリポー、ラクロワとは対照的に、ダントンは都合の悪い現実を遮断し、「革命を導き民衆に愛されている自身」の幻想の中にすっかり入り込んでしまったのではないだろうか。

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1:47:35あたりから。このときカミーユがジョルジュに覆いかぶさってこの男から引き剥がそうとするのにも注目。やっぱり好きやろ。

また、ダントンの大声がうるさいだけで耳障りに感じた。史実のダントンは「天井を揺るがすほどの大きな声」で有名な人物だとはいえ、ただ怒鳴っているだけのように思える箇所が(全てではないものの)何度もあった。もっとも、『バルスーズ』から『幻滅』まで他の出演作を見たときにはそれほど感じなかったので、ドパルデューの演技力の問題ではないだろう。むしろ、フランス人全般がダントンに抱くステレオタイプの影響の大きさが作用しているのではないだろうか(LRFでダントンを演じた、オーストリア出身のクラウス・マリア・ブランダウアーの巧みな声の使い方と比べても*3)。

皮肉なことに、彼を英雄として描こうとした映画よりも悪人として描いた原作の方が、私はダントンに深く同情してしまった。

 

とはいえ原作から改変されたことが良い効果を生み出した場面も多数認められる。

まず牢獄にロベスピエールが訪れる場面で、フィリポーがロベスピエールに出会うカットが挿入されたこと(原作では言葉のみで、ロベスピエールの姿は舞台上にない)。友を救おうとするロベスピエールの切実な姿が映像で示されたことに加え、フィリポーはここで、ロベスピエールが暴君や怪物ではなくカミーユへの愛情を抱く一人の人間であることに気づいたように思える。だからこそ、ダントンの嘲笑に味方ながら絶望を覚えたのだろう。フィリポーはダントン派から一歩離れた立場で、冷静ながら優しさも併せ持った人間観察の名手として良く演じられていると思う。

リュシル・デムーランを力強い革命の闘士として描いたことも良い改変だろう(とはいえ、ほぼ常に乳児を抱いた姿は「母」の安直なイメージにも思えたが)。正直なところ、原作では夫の逮捕に右往左往する愚かな妻にしか思えなかった。彼女が逮捕されないのは史実に反するものの、「殉死ではなく生きて戦うべき」というメッセージとして私は良いと思った。

またルイーズ役のエマニュエル・ドゥベヴェールがドパルデューによる性加害を告発した後に亡くなってしまったことを考えると非常に痛ましいが、映画の方が、ダントンが妻のルイーズを抑圧していることを鮮明に示したと思う。彼女は夫を恐れており、どう考えても健全な夫婦関係とは程遠いだろう。原作ではよりはっきりとルイーズが夫を非難するが、傷ついたダントンの姿も示されるためどちらがどちらを虐待しているのか時々分からなくなってしまった。

宣伝文とは異なり、ロベスピエールは残酷な独裁者ではない繊細なキャラクターであり、私は終始ダントンよりもロベスピエールに同情を感じた。演じたヴォイチェフ・プショニャックはロベスピエールを暴君やモンスターではなく高い理想を持った男として演じることで、この役に人間味を付加した。またこの映画がきっかけで、サン=ジュストは「革命の大天使」でもヤンデレサイコでもない、我々と同じような普通の若者であると私は気づくことができた。

それからアンジェイ・セヴェリンが演じたブルドン。原作ではいたことを忘れるくらいの端役だが、セヴェリンは時にはコミカルに(レストランで他の客を追い払う)、時には複雑に(議会で寝返る)この人物を演じている。私が個人的にセヴェリンの容姿が好き、というのも大きいが...

守りたいこの笑顔(一番右)

私がこの映画に抱く不満は結局のところ大まかに、「主役とサウンドトラックが気に入らない」の2点に集約される*4。歴史映画としては良くできていると思うし、登場人物に思い入れがなかったら私も高く評価していたと思う。しかしながら、ロベスピエールはともかく、(特に日本で)ダントンやカミーユのパブリック・イメージがこの作品に依拠してしまうのはなんだかなぁ、との思いも抱いている。

*1:本作では天才ゆえに人間をやめようとする(!)ロベスピエールの愛は昇華されたため、デムーランには冷たく思えるらしい。また映画でこの力学の全てが捨てられたわけではなく、ロベスピエールとデムーランの関係にはこの名残が色濃く認められる

*2:Tumblrで、シェローの監督作『傷ついた男』(執筆時には未見)にこの場面と類似のシークエンスがあるとの指摘を見たことがある。ただし、俳優のセクシュアリティや関わった他作品を安易にその役に結びつけるべきではないとも思う。

*3:フランス語版はネイティブの声に吹き替えられているが、英語版では彼本人の声が聞ける

*4:とはいえエレオノール・デュプレが(史実でも原作でもそのような素振りはないのに)暴力的な人物にされてしまったことや、ラクロワの面白みが消えた(これはダントンの性格変更に伴う)など、欠点は他にも挙げられるが....

スタニスワヴァ・プシビシェフスカ『ダントン裁判』感想

スタニスワヴァ・プシビシェフスカ『ダントン裁判』の英訳版を読んだ。

nupress.northwestern.edu

アンジェイ・ワイダ監督の映画『ダントン』の原作だが、映画化にあたりかなり改変を加えているため共通しているのは3割程度だろう(体感)。

プシビシェフスカはポーランドの劇作家でロベスピエールの熱狂的崇拝者だった。作者は幼い頃からこの人物に魅力を感じていたらしいが、作品では20世紀前半にロベスピエール再評価(と裏返しのダントン批判)を進めた歴史家アルベール・マティエの影響を大いに受けている。

台詞回しの巧みさや深刻な物語に笑いどころを付け加えるユーモアセンスなどが優れた文学作品であり、フランス革命を題材にした文学作品の最高峰と評価する者が多いのもうなづける。それはそうなのだが、それでも読み進めるうちにどこか居心地の悪さを感じた。その居心地の悪さはどこに由来するのかといえば、ダントンは作中の悪であり憎しみの対象にされるべき人物なのか?という疑問である。

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ピーター・マクフィー「ロベスピエール」感想

はや3ヶ月このブログを放置していた。tumblrの居心地が良かったので... とはいえ日本語で長文を書くのはここの方が良さそう。

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ロベスピエールは極端に評価が分かれる歴史人物の一人だ。「恐怖政治を率いた人の心がない残酷独裁者」と、フランス革命を否定する文脈では悪の象徴の如く扱われる。一方で熱心な支持者やファンも多く、著者によれば「ロベスピエールに関して肯定的な評価を下す伝記に共通する前提は、彼のすべての行動は、反革命に対する適切で必然的な反応であったというものだ。(p. 15.)」という。著者のピーター・マクフィーはロベスピエールに一貫して同情的なスタンスをとるものの、とはいえ盲目的にすべての彼の言行を肯定することはなく、ときには彼の欠点や犯した間違いを指摘し批判すべき点は批判する。

テルミドールのクーデターは起こるべくして起こったのか

本書を手に取った興味の一つとして、テルミドールのクーデターがどのような経緯で起こったのか知りたかった。ロベスピエールと仲間たちが邪悪だからではなく、かといって"悪しきテルミドリアン"たちの陰謀の結果と単純化された見方にも納得できなかった。本書を読んで、この出来事は起こるべくして起こってしまったのだという感想を抱いた。

地方で行った過度の暴力をロベスピエールに弾劾されることを恐れた派遣議員たちが彼の打倒を狙ったことに加え、

フルーリュスの戦いの勝利により、フランスは軍事的危機を脱した

革命政府の独裁体制の終結と1793年憲法の施行を望む風潮が高まるが、ロベスピエールらは体制を戻そうとはしなかった

+

誰もが「革命の敵」として処罰されるかもしれないという、議員たちの不安を煽る曖昧な脅しのような発言をロベスピエールが繰り返す

議員たちが自らの身の安全を不安視し、もともと敵ではなかった人や友人まで敵に回すことになり、クーデターに至った

という流れのようだ。

この破滅に至るまで、ロベスピエールにも判断ミスや落ち度は少なからずあった。単なる政府批判だけで処刑されかねないプレリアル法は多くの議員たちに反感と恐怖を抱かせたようだ。晩年のロベスピエールは「反革命の陰謀」という言葉を多用し、「意見の違いと裏切りの区別がつかなくなっていた (p. 334.)」。その中でも彼を支持する声も少なからず寄せられたようだが、そのような賛意にも背を向けてしまったことも致命的だったのではないだろうか*1。クーデターの中で彼の友人だったアンドレ・デュモンが発したように。

「君を殺したいと思っている者などいない。」彼は叫ぶ。「世論を殺そうとしているのは君だ!」(p. 330.)

マクフィーは1794年春からテルミドールに至るまでのロベスピエールの相次ぐ致命的な判断ミスを心身の疲弊*2に帰しているが、もう少し上手く立ち回っていればスケープゴートにされることなく、もっと穏便な形で独裁から通常の立憲体制に移行することができたのではないかと残念に思う。

革新的な人物が周囲の声を聞かずに孤立し、破滅(自滅)に至る点で、セリーヌの「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」を思い出した*3

とはいえ、それでもロベスピエールが顎を砕かれたまま苦悶のうちに処刑され、同時代人や後世の人々から罵られ続けるに値する人物だとは到底思えない。そして著者が憤っているのはクーデターよりもむしろ、彼の死後になされた無数のいわれなき中傷であるように思われる。

現実主義者としてのロベスピエール

本書でも「彼は、あたかも脳みそが歩いているかのごとく、統一的で完全無欠な思想の代弁者であるかのように書かれることがあまりにも多」い (p. 358.) と書かれているように、賛否どちらの文脈でもロベスピエールは「理想主義者で、その理想に反する/ついていけない者たちをふるい落としていった」ように描かれがちである。しかしながら、著者によればロベスピエールの特徴はむしろ現実主義にあるという。

ロベスピエールの革命家としての特徴は、革命の最も重要な目的地をはっきり提示できる能力と、 鋭敏な現実主義にあった。一度宣戦布告がされれば戦争を支持し、王政が倒れれば共和政を支持し、 自身が政府に加わるまでは街頭での抗議行動を認めていた。(p. 318.)

現実を無視せずに理想を提示できることが彼の強みであり、晩年の失態はその均衡を失ったからだと著者は指摘する。この視点は往々にして見逃されがちである。

もっとも本書を読む限りでも、「神経質」「人付き合いが丁寧ではない」「話がくどく説教臭い」など、彼は社交上、そして政治に携わる上で障害になりうる欠点も持ち合わせていたように思われる。ただし彼に少なからず友人や支持者がいたことを考えると、これらは社会生活を送る上でそれほど重大ではなかったのではないか。革命に身を投じその中心にたどり着いた、もとは「我々と同じような普通の人」としてのロベスピエール像を再確認できた。

成長した子どもたちは聖人や悪魔ではなく大人になる

この本が優れているのは、ロベスピエールに限らず一人の人物を論じるときに一面的な見方に陥るべきではないと示しているところだ。

われわれは何より先に、マクシミリアンもかつては一人の小さくて弱々しい子ども であり、大人になった子どもたちは、聖人や悪魔になるのではなく、男や女になるのであるということを忘れてはいけないだろう。また、誰か具体的な人間の行動を説明するのに、心理分析的なカテゴリを乱暴にあてはめることには慎重であるべきだろう。母親の死*4という悲しい状況が、小さな男の子に与えたかもしれない心理的なダメージを、誇張するようなことがあってはいけないのである。(p. 357)

歴史人物や有名人、あるいは友人・知人について考えるときにはつい単純化したり、人生の中で起こったある出来事の影響を誇張して考えてしまうのは私もやりがちなので、(特に創作や趣味ではない、事実ベースの歴史学あるいは学術研究の場では)留意しなければならないと改めて思わされる。また「成長した子どもたちは聖人や悪魔ではなく大人になる」というのは映画「ロスト・キング」で提示された歴史観にも相通ずるものがあると感じる。SNSなどで検索すれば否応なしに目に入るように、ロベスピエールを"人の気持ちが分からない残虐な暴君"と扱う(フランス革命に否定的な)言説は今日でものさばっている。一方で(日本には少ないが)現代のロベスピエール支持者には、「ダントン事件」*5の著者である20世紀ポーランドの作家スタニスワヴァ・プシビシェフスカの見解*6をそのまま信じ込み、ロベスピエールは何一つ間違ったことをせず、悪いことはすべてダントンのせい(で、デムーランはロベスピエールのもとに帰るべきだったのに彼に騙された被害者)との極端な見方をする者も少なくない*7。著者がこのような、(ダントンに限らず)他の誰かを絶対的な悪人や敵として非難するような立場を取らなかったことはそれだけで称賛に値する。この本がなければ私はロベスピエールを「統一的で完全無欠な歩く脳みそ」として嫌いになっていたかもしれない。

最後に、このような本を日本語で読めることに感謝したい。私には幸いにも英語やフランス語で読める能力は(一応)あるとはいえ、それでも母語で読めるのはありがたいことだ。

*1:彼の支持者が発した「全フランス人が君の味方だ!」という声に対しても「私は自分の熱心な支持者も、崇拝の言葉もいらない。」とのみ返したという。もっとも1791年に彼の母校であるルイ=ル=グラン校の生徒たちが彼の栄誉を称えリースを贈った時も「あなたがたは自由な国民であることを忘れたのですか」と感謝するどころか憤った (p. 159.)ので、称賛されるのがもとから嫌だったのかもしれない。

*2:著者はこの原因を愛情と尊敬を覚えていた友人であるダントンやデムーランとの対立および彼に対し相次いで行われた暗殺未遂事件としている。また著者はロベスピエールの判断ミスの発端を、汚職や横領に関わった者のリストに無関係のデムーランを入れ、彼を死に追いやったことだと指摘する。

*3:もっとも史料をふんだんに参照し、丁寧に歴史的事実を追う本書と比べ、セリーヌの著作は史実の歪曲や創作が多分に含まれ、発表当時から誤りが指摘された。

*4:ロベスピエールは5歳の時に母親を亡くし、悲しみに耐えかねた父親はアラスを出奔した。著者によれば、残されたロベスピエール兄弟は親戚によって手厚く育てられたという。

*5:1983年の映画「ダントン」の原作。ただしロベスピエール賛美の原作とは異なり映画はダントンを擁護するもの「ということになっている」(が、私には到底そうは思えない)。

*6:ファンダムでデムーラン人気が高いことを鑑みると、彼を低評価したマティエよりも同情的に扱った彼女の影響の方が大きいだろう。

*7:私個人としてはフランス革命の定番ネタとなったロベスピエールvs. ダントンの構図設定そのものに疑問を抱いている。ミシュレやマティエvs. オーラール論争あたりの影響なのだろうが、現代の我々がそれにとらわれ続ける必要はどこにもない。

『阿寒に果つ』と「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展

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雪に埋もれ眠り、凍りついて死ぬという象徴的なイメージ。

好きな小説なのに、何か書こうとするとどうしても筆が止まってしまい三年くらい放置していた。今ならまとまったことが書けそうなのでキーを叩いている。

 

純子の姉、蘭子が妹に対して抱くのは嫉妬だと語り手は述べるが、純子の死への罪悪感も彼女は抱えていたのではないかと私は思う。恋愛的な意味での「一番の愛」は誰にも抱いていなかったのかもしれないが、純子は何だかんだ姉のことは大切で心を開いていたように思う。純子にとって蘭子は帰る存在であり、安心して眠れる場所だったように思う。駒田から金をもらっていた告白も、姉が彼とすっぱり別れられるようにするためだったのではないか(他者の裏付けがない以上、純子のでっち上げの可能性も十分考えられる)。彼女が死を選んだ直接的きっかけの一つは姉が自分を置いて東京へ行ってしまったことだろう。

「さよなら」

蘭子がもう一度背伸びして手を振った時、見送りのなかから赤いコートの純子が駈け出してきた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、行かないで」

純子が髪をなびかせて追ってくる。

「お姉ちゃん、行ったら死んじまう*1

「行ったら死んじまう」というのはハッタリでも脅しでもなく、切実な叫びだったのではないか。蘭子も気づいてはいたが、それでも妹から離れて自分の道を切り開くことを選んだのではないだろうか(蘭子がこのまま妹と札幌にいれば自分がダメになると危惧するのも当然だと思うし、東京へ出たことは間違った選択ではないだろう)。そして罪悪感を打ち消そうとして、蘭子はあえて冷淡に妹を一種のナルシスト・エゴイストとして結論づけたのではないか。

 

結局純子が何を考えてなぜ死んだのか、正解は示されない。純子と繋がりのあった人々に一通り会ったあと、語り手はいくつかの可能性を示す。

「生きるのに疲れた」「若さに頼っていられない未来を悟り憔悴した」「恋も死も全て計算の上だった」

その上で語り手なりの結論として「純子は自分以外誰も愛していなかった」と導き出す。

六つの面から照らし出せば出すほど、純子という結晶は、ひたすら純粋に、純子一人の純子になっていく*2

正直なところこの結論には腑に落ちない点もある。人物の多面性についてはその通りだと思うが、語り手は「純子という一つの存在がどこかにある」と解釈するきらいがある。私はむしろプルースト失われた時を求めて』でアルベルチーヌの思い出を拾い集めた語り手が思い至る「存在の複数性」の方がしっくりくる。

しかし、なんといっても、アルベルチーヌが、数多くの部分、数多くのアルベルチーヌに、そのように分割されたということこそ、私の内部におけるアルベルチーヌのただ一つ変わらない あり方なのだった。[...] われわれはそれぞれに一人なのではなく、各自には多くの人間がふくまれている。それらの人間はみんながおなじ精神的価値をもっているわけではない*3

近年の歴史学におけるダントン研究*4も似たような結論に至っていたように思う。彼もまたフランス革命の中で、彼ほど各人によるイメージは独り歩きし、実像を掴みづらい人物はいないだろう。そして彼を「一つの実像」に押し込めることは不可能だと私は思う。かつてオーラールとマティエがそれぞれ主張したように、ダントンが「人類を愛した寛大な愛国者」あるいは「革命を裏切った強欲な悪徳政治屋」と決め、全てをそこに収束させることはできない。ジョルジュ・ルフェーヴル以降の歴史家の間でこの認識は浸透しているようだが、文学や芸術、インターネットのフランス革命ファンダムではどちらかの像に彼を押し込めようとする傾向が続いていると思う。

『阿寒に果つ』に戻ろう。「純子は誰のものでもない」というのは、それはその通りだと思うのだが、「一つの純子」が存在するとした上で「純子は自分以外誰も愛していなかった」と結論付けるのは早急ではないか。「一番の愛」でなくとも、彼らにそれぞれ純子は何かしらの思い入れを持っていたように私は思った。それに千田と殿村は「自分が一番純子に愛されていた」とは考えていないように思えるのだが、この結論(あるいはこの小説全体)の目的はあくまで語り手のセルフセラピーで、論理や辻褄は重要ではないのだろう。

一通り読んでみて私なりに解釈すると、純子は自分が駄目になっていることに薄々気づいており(むしろそう思い込み)、諦めとともに死を華麗なるフィナーレとする自己演出を始めたように思う。語り手が捉えているより、未来への恐れや焦り、諦めが大きいのではないか。彼女が姉に漏らした

「あたしはもう駄目かもしれないよ*5

という一言はあまりにも切なく重い。自分が浦部や千田のように平穏に生きていけるとは思えず、また殿村や蘭子、俊一(語り手)には輝ける未来が待つことが彼女には悔しく、自分が置いていかれるように思えてならなかったのではないか。

 

2022年冬に北海道立文学館で開催された「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展に行った。これもずっと書こう書こうとして書けないでいた感想だ。

『阿寒に果つ』ではあまり拾われなかったが、実在の加清純子は小説やエッセイも執筆しており、これが荒削りながら惹かれる文章だった。『阿寒に果つ』とwikipediaのみの事前知識からは意外だったが、雪像コンクールを題材にした短編小説『偽りの作』や寄せ書きから、純子が高校のクラスに期待を抱いていたことを知った。

『偽りの作』あらすじ:主人公・舜子はクラスが団結するために雪像コンクールで優勝することを目指す。しかし日が経つごとに集まるクラスメートの数は減り、残った生徒も義務感や下心から集まったにすぎない。心身ともに疲弊した舜子は注射を打ってまで雪像作りに奮闘するが、いざ完成すると虚無感しか残らなかった。だが雪像は優勝し、クラス中で分配され一粒しか残らなかった景品のキャラメルを口にした舜子は「これでいいのさ」と満足した。

彼女が高校同人誌に寄せたメッセージには「冷たいクラスだった。私を孤独へと追いやった冷たいクラス。でも今となっては全てを感謝する」(記憶頼みで書いているので多少の差異があるかも)という言葉も添えられていた。棘棘しい言葉だが、裏を返せば彼女はそれだけ自分のクラスに期待し、より良くなるよう尽力していたのではないか。
『阿寒に果つ』を読む限り、純子は高校に何ら関心を持っていないと思っていた。しかしこれらからは芸術に邁進するのみならず、楽しく実のある学生生活を望んだ純子の一面が見えたように感じられた。加えて学級写真あるいは友人たちとの写真を見ると、楽しそうな笑顔の彼女が確かにそこにいた。

『阿寒に果つ』を読んで想像したよりも加清純子はかなり身近な存在だと感じた。私自身も『偽りの作』に類似した、自分が中学・高校時代に「冷たいクラス」と言いたくなるような経験を何度も繰り返した。私の高校時代ははるか昔だが、純子に勇気づけられたような気がした。

また『藝術の毛皮』という純子が書いた小説の筋書きや登場人物がほとんど『阿寒に果つ』と同じであることに驚いた。生前の作品なので阿寒湖は登場しないものの、冒頭は画家の主人公が結核で亡くなる場面から始まる。その主人公はある教師への失恋がきっかけで男性たちを誘惑するようになる。事あるごとに主人公の姉に対する辛辣な意見が述べられ、小説家志望だった姉の恋人を横取りするエピソードもある。純子自身も姉へのコンプレックスが相当強かったのではないだろうか(姉妹なんて皆そんなものだと知人に聞いたことはあるが)。渡辺淳一は『藝術の毛皮』の存在を知っていたのだろうか?『阿寒に果つ』はあくまで渡辺淳一が作り上げた純子の話思っていたが、『藝術の毛皮』を踏まえると『阿寒に果つ』の純子像は実際の加清純子自身が望んだイメージであるようにも思う。

1996年にHBCで放映された「もうひとつの『阿寒に果つ』-氷の自画像を訪ねて」の上映も観たが、一番印象に残っているのは渡辺淳一が「純子は死にたがっていた。ある時「死のうかな」と言われたので「死ねないだろ」と答えたら本当に死んでしまった」と語っていた箇所だ。その表情を見ていたら、純子の死そのものもさることながら、むしろ自殺を煽る(結果となった)言葉を口にしたことで本当に彼女を市に至らしめてしまった経験が彼のトラウマではないかと感じた。もっとも私は渡辺淳一を「不倫の話を書く人」くらいにしか認識しておらず、その性格や価値観は知らない。だから的外れな感想かもしれないが。

他にもあるクラスメートに出会うなり「美しい人がいた!」と興奮し、絵を描いたエピソードも面白かった。(その肖像画も展示あり)『阿寒に果つ』でも蘭子が言及していたが、他者から見て純子は「美しい人」と思われていた(し、写真を見てもそう思う)ものの、彼女自身は自身の容姿に関するコンプレックスを抱えていたのではないか。

『阿寒に果つ』には出てこなかったが、加清純子の弟が暮尾淳という詩人であることも知った。彼の証言で「幼少期に転地療養していたとき、見舞いに来たのは純子だけだった。彼女はそういうところがあった。(要旨)」との箇所が今も心に残っている。

*1:p.390.

*2:p. 406.

*3:井上究一郎訳『逃げ去る女』p. 204.

*4:Danton : Le mythe et l’Histoire, dir. Michel Biard&Hervé Leuvers, Armand Colin, 2016.や Serge Bianchi, Danton, ellipses, 2021.など

*5:p. 389.