Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

『阿寒に果つ』と「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展

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雪に埋もれ眠り、凍りついて死ぬという象徴的なイメージ。

好きな小説なのに、何か書こうとするとどうしても筆が止まってしまい三年くらい放置していた。今ならまとまったことが書けそうなのでキーを叩いている。

 

純子の姉、蘭子が妹に対して抱くのは嫉妬だと語り手は述べるが、純子の死への罪悪感も彼女は抱えていたのではないかと私は思う。恋愛的な意味での「一番の愛」は誰にも抱いていなかったのかもしれないが、純子は何だかんだ姉のことは大切で心を開いていたように思う。純子にとって蘭子は帰る存在であり、安心して眠れる場所だったように思う。駒田から金をもらっていた告白も、姉が彼とすっぱり別れられるようにするためだったのではないか(他者の裏付けがない以上、純子のでっち上げの可能性も十分考えられる)。彼女が死を選んだ直接的きっかけの一つは姉が自分を置いて東京へ行ってしまったことだろう。

「さよなら」

蘭子がもう一度背伸びして手を振った時、見送りのなかから赤いコートの純子が駈け出してきた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、行かないで」

純子が髪をなびかせて追ってくる。

「お姉ちゃん、行ったら死んじまう*1

「行ったら死んじまう」というのはハッタリでも脅しでもなく、切実な叫びだったのではないか。蘭子も気づいてはいたが、それでも妹から離れて自分の道を切り開くことを選んだのではないだろうか(蘭子がこのまま妹と札幌にいれば自分がダメになると危惧するのも当然だと思うし、東京へ出たことは間違った選択ではないだろう)。そして罪悪感を打ち消そうとして、蘭子はあえて冷淡に妹を一種のナルシスト・エゴイストとして結論づけたのではないか。

 

結局純子が何を考えてなぜ死んだのか、正解は示されない。純子と繋がりのあった人々に一通り会ったあと、語り手はいくつかの可能性を示す。

「生きるのに疲れた」「若さに頼っていられない未来を悟り憔悴した」「恋も死も全て計算の上だった」

その上で語り手なりの結論として「純子は自分以外誰も愛していなかった」と導き出す。

六つの面から照らし出せば出すほど、純子という結晶は、ひたすら純粋に、純子一人の純子になっていく*2

正直なところこの結論には腑に落ちない点もある。人物の多面性についてはその通りだと思うが、語り手は「純子という一つの存在がどこかにある」と解釈するきらいがある。私はむしろプルースト失われた時を求めて』でアルベルチーヌの思い出を拾い集めた語り手が思い至る「存在の複数性」の方がしっくりくる。

しかし、なんといっても、アルベルチーヌが、数多くの部分、数多くのアルベルチーヌに、そのように分割されたということこそ、私の内部におけるアルベルチーヌのただ一つ変わらない あり方なのだった。[...] われわれはそれぞれに一人なのではなく、各自には多くの人間がふくまれている。それらの人間はみんながおなじ精神的価値をもっているわけではない*3

近年の歴史学におけるダントン研究*4も似たような結論に至っていたように思う。彼もまたフランス革命の中で、彼ほど各人によるイメージは独り歩きし、実像を掴みづらい人物はいないだろう。そして彼を「一つの実像」に押し込めることは不可能だと私は思う。かつてオーラールとマティエがそれぞれ主張したように、ダントンが「人類を愛した寛大な愛国者」あるいは「革命を裏切った強欲な悪徳政治屋」と決め、全てをそこに収束させることはできない。ジョルジュ・ルフェーヴル以降の歴史家の間でこの認識は浸透しているようだが、文学や芸術、インターネットのフランス革命ファンダムではどちらかの像に彼を押し込めようとする傾向が続いていると思う。

『阿寒に果つ』に戻ろう。「純子は誰のものでもない」というのは、それはその通りだと思うのだが、「一つの純子」が存在するとした上で「純子は自分以外誰も愛していなかった」と結論付けるのは早急ではないか。「一番の愛」でなくとも、彼らにそれぞれ純子は何かしらの思い入れを持っていたように私は思った。それに千田と殿村は「自分が一番純子に愛されていた」とは考えていないように思えるのだが、この結論(あるいはこの小説全体)の目的はあくまで語り手のセルフセラピーで、論理や辻褄は重要ではないのだろう。

一通り読んでみて私なりに解釈すると、純子は自分が駄目になっていることに薄々気づいており(むしろそう思い込み)、諦めとともに死を華麗なるフィナーレとする自己演出を始めたように思う。語り手が捉えているより、未来への恐れや焦り、諦めが大きいのではないか。彼女が姉に漏らした

「あたしはもう駄目かもしれないよ*5

という一言はあまりにも切なく重い。自分が浦部や千田のように平穏に生きていけるとは思えず、また殿村や蘭子、俊一(語り手)には輝ける未来が待つことが彼女には悔しく、自分が置いていかれるように思えてならなかったのではないか。

 

2022年冬に北海道立文学館で開催された「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展に行った。これもずっと書こう書こうとして書けないでいた感想だ。

『阿寒に果つ』ではあまり拾われなかったが、実在の加清純子は小説やエッセイも執筆しており、これが荒削りながら惹かれる文章だった。『阿寒に果つ』とwikipediaのみの事前知識からは意外だったが、雪像コンクールを題材にした短編小説『偽りの作』や寄せ書きから、純子が高校のクラスに期待を抱いていたことを知った。

『偽りの作』あらすじ:主人公・舜子はクラスが団結するために雪像コンクールで優勝することを目指す。しかし日が経つごとに集まるクラスメートの数は減り、残った生徒も義務感や下心から集まったにすぎない。心身ともに疲弊した舜子は注射を打ってまで雪像作りに奮闘するが、いざ完成すると虚無感しか残らなかった。だが雪像は優勝し、クラス中で分配され一粒しか残らなかった景品のキャラメルを口にした舜子は「これでいいのさ」と満足した。

彼女が高校同人誌に寄せたメッセージには「冷たいクラスだった。私を孤独へと追いやった冷たいクラス。でも今となっては全てを感謝する」(記憶頼みで書いているので多少の差異があるかも)という言葉も添えられていた。棘棘しい言葉だが、裏を返せば彼女はそれだけ自分のクラスに期待し、より良くなるよう尽力していたのではないか。
『阿寒に果つ』を読む限り、純子は高校に何ら関心を持っていないと思っていた。しかしこれらからは芸術に邁進するのみならず、楽しく実のある学生生活を望んだ純子の一面が見えたように感じられた。加えて学級写真あるいは友人たちとの写真を見ると、楽しそうな笑顔の彼女が確かにそこにいた。

『阿寒に果つ』を読んで想像したよりも加清純子はかなり身近な存在だと感じた。私自身も『偽りの作』に類似した、自分が中学・高校時代に「冷たいクラス」と言いたくなるような経験を何度も繰り返した。私の高校時代ははるか昔だが、純子に勇気づけられたような気がした。

また『藝術の毛皮』という純子が書いた小説の筋書きや登場人物がほとんど『阿寒に果つ』と同じであることに驚いた。生前の作品なので阿寒湖は登場しないものの、冒頭は画家の主人公が結核で亡くなる場面から始まる。その主人公はある教師への失恋がきっかけで男性たちを誘惑するようになる。事あるごとに主人公の姉に対する辛辣な意見が述べられ、小説家志望だった姉の恋人を横取りするエピソードもある。純子自身も姉へのコンプレックスが相当強かったのではないだろうか(姉妹なんて皆そんなものだと知人に聞いたことはあるが)。渡辺淳一は『藝術の毛皮』の存在を知っていたのだろうか?『阿寒に果つ』はあくまで渡辺淳一が作り上げた純子の話思っていたが、『藝術の毛皮』を踏まえると『阿寒に果つ』の純子像は実際の加清純子自身が望んだイメージであるようにも思う。

1996年にHBCで放映された「もうひとつの『阿寒に果つ』-氷の自画像を訪ねて」の上映も観たが、一番印象に残っているのは渡辺淳一が「純子は死にたがっていた。ある時「死のうかな」と言われたので「死ねないだろ」と答えたら本当に死んでしまった」と語っていた箇所だ。その表情を見ていたら、純子の死そのものもさることながら、むしろ自殺を煽る(結果となった)言葉を口にしたことで本当に彼女を市に至らしめてしまった経験が彼のトラウマではないかと感じた。もっとも私は渡辺淳一を「不倫の話を書く人」くらいにしか認識しておらず、その性格や価値観は知らない。だから的外れな感想かもしれないが。

他にもあるクラスメートに出会うなり「美しい人がいた!」と興奮し、絵を描いたエピソードも面白かった。(その肖像画も展示あり)『阿寒に果つ』でも蘭子が言及していたが、他者から見て純子は「美しい人」と思われていた(し、写真を見てもそう思う)ものの、彼女自身は自身の容姿に関するコンプレックスを抱えていたのではないか。

『阿寒に果つ』には出てこなかったが、加清純子の弟が暮尾淳という詩人であることも知った。彼の証言で「幼少期に転地療養していたとき、見舞いに来たのは純子だけだった。彼女はそういうところがあった。(要旨)」との箇所が今も心に残っている。

*1:p.390.

*2:p. 406.

*3:井上究一郎訳『逃げ去る女』p. 204.

*4:Danton : Le mythe et l’Histoire, dir. Michel Biard&Hervé Leuvers, Armand Colin, 2016.や Serge Bianchi, Danton, ellipses, 2021.など

*5:p. 389.

本当は暗い文学キャノンの世界 (あるいはAO3のレーティング)

拙い英語でAO3 (Archive of our own, グローバルな小説投稿サイト) にたまにファンフィクを投稿している。ファンダム自体マイナーだしそれほど見られていないのだが、「いいね (kudos)」やコメントがつくと嬉しい。

このAO3に投稿するにあたってほぼ毎回頭を悩ませているのがレーティング/年齢制限だ。Pixivなど日本発の創作プラットフォーム(この呼び方で良いのか)はR-18 (あるいはR-18G)または全年齢かの区分のみだが、AO3は

General: 全年齢向け

Teen and up: 13歳以上

Mature: 16歳以上

Explicit: 日本のR-18と同義*1

の4つに区分されている。とはいえ、何をどれに指定するかは各投稿者の裁量に一任される。

いつも悩むのがTeen and upとMatureの間である。サイト公式の手引きによればMatureは「作品内容が成人向けのテーマ(性、暴力など)を含むものの、過激な成人向ほど過激な描写ではありません。だそうだ。

この前書いたファンフィクは「性行為の描写はないが、接吻や愛撫で陶酔する場面があるし死を(ある意味)軽々しく扱っているからTeenにするのは気が引けるなあ」と思い、Matureでアップロードにした。だがそのあとで読み返してみると、「子供の頃に読んだ文学の方がどぎつくないか?」と思ったのだった。

私の小学1年生の頃の愛読書はレ・ファニュの『カーミラ』だった。子供向け文学全集に収録されていたのだ。言葉遣いは平易に改められているものの、全訳と比較しても削除・大幅に改変されている場面はない。カーミラがローラに甘い言葉をささやきながら愛撫する場面もほぼ原文通り残っていた*2。血に満たされた棺の中に横たわるカーミラの身体に杭が振り下ろされ、断末魔をあげ彼女が消え去る結末は、一種の文学的原風景として今でも覚えている(つまり、ここもほぼ原作通り)。

また学校や公共図書館の「中学生が読むべき名作文学」リストにはエミリー・ブロンテの『嵐が丘』が必ずと言って良いほど入っていた。多分だが「教養として世界の名作を知っておこう」という意図が存在するのだろう。しかしながらこの物語は性的描写こそせいぜい接吻止まりだが、暴力、児童虐待、DV、監禁、etc. と後ろ暗い行為のオンパレードが続く。クライマックスに至っては墓暴きである。しかも内容やテーマを考えると、いくらティーンエイジャーが主要な役割を果たす物語だとはいえ中学生が読んで本当におもしろいのか正直なところ疑問である。

これらを考えると『カーミラ』や『嵐が丘』を「児童・生徒が読むべき本」として推薦リストに入れたいかと言われればイエスとは言い難い。

とはいえ、誤解してほしくないがこれらの本を大人向けとして年齢制限をかけるのは非常にバカバカしいと私は思っている。それにこの手のテーマに興味を持つティーンは、たとえ禁止したところでどのみち何らかの手段で入手するだろう。私だってサドやバタイユグランギニョル演劇の本を中学生の頃に読んでいた。もっとも、表面上のエロ・グロをなぞるだけで、思想の面白さが分かってきたのはもっと後になってからのことだったが(何なら、今もよく理解できていないまま読んでいる)。それに、仮にある中学生が『嵐が丘』を読んで「墓暴きウケるww」という感想しか持たなくとも、それはその時の感想として尊重すべきだ。私が言いたかったのは、一応「健全で愛に溢れた大人」の育成を目指しているはずの読書教育の場に、ダーク・ロマンティックな作品が紛れ込んでいるのはどことなく面白いということである。

よく考えてみれば、これ以外の多くの「正典文学」作品にも不貞や犯罪は頻繁に登場する。しかしこの2作は特に闇の美しさが濃いと思う。(というより、私が「墓場系文学」の愛好者だから特に印象に残っている)

それに推奨はされなくとも、高校までの現代文教育がエロ・グロ・アンチモラル的作品を一切遮断しているかといえばそうでもない。懐かしの「国語便覧」に渡辺淳一が紹介され、確か『愛の流刑地』か『失楽園』の簡単なあらすじが載っていたことを覚えている。とはいえ、夏休みの課題図書にこれらの作品を指定する教師はいないだろう。せいぜい中・高生に勧めるなら『阿寒に果つ』くらい...と思ったが、主題が高校生の(美化された)自殺に加え、中学生が大人と性的関係を持つ場面があるので昨今の情勢では許されないか。

話をAO3のレーティングに戻そう。

私が書いたファンフィクより『カーミラ』や『嵐が丘』の方がよほど淫靡でダークではないか。映画でも、この前見たPG12指定のリドリー・スコット監督『ナポレオン』なんて人が戦場で次々とミンチになり、主人公夫妻の性交も何も隠さず写っていたではないか*3。それに比べたら、私のなんてぬるいにもほどがないか。ある程度の性描写を期待して読んだ人が「Matureとあったのにこれっぽっちかよ」と思うのもそれはそれで申し訳ない。とはいえ、性行為を予感させる描写と命を軽視するとも取れない登場人物の思考など*4を踏まえると、なんとなくTeenにするのは気が引ける。

というわけでMatureにしたのだが、今でも答えは出ない。他のficやRedditTumblrを見てみても、結局共通認識すらなく個々人の裁量に任せられているようだ。

オチや結論はない。レーティングについて考えていたら、読書教育の場で推薦されるいわゆる「文学キャノン」ってけっこう後ろ暗い話が多いことに気づいただけである。

 

関係ない話。中学生のころやっていたブログとサイトをこの前見つけた。予想通り痛々しい。それでも当時の毎日が生き生きと記録されていた。IDとパスワードはまだ手元にあるので消そうと思えばできる。だがインターネット上を漂流する一人の記憶として残しておこう。

*1:自分の作品に関して、性器を扱う描写(およびそれに等しい行為)が言及されたらExplicitにしようと思っている。

*2:実家に帰ってもこの本が見つけられなかったのでオリジナルとの比較ができないでいたのだが、「東京大学百合同好会」のこの記事が相違点をまとめていた。確かにローラがカーミラを好きだった印象が強く残っていたため、オリジナルで彼女がカーミラの行動に対する嫌悪感を事あるごとに強調していたので違和感を覚えた。これには執筆当時のヴィクトリア朝の性モラルや女性像規範の問題が深く関係するのだろう(物語の時代設定は不明。ただしカーミラが「すべては神でなく自然の命ずるままに生きる」と言ってビュフォンにも言及するので、フランス革命近辺なのだろうか?)とはいえ、ジュブナイル版がローラの好意を強調していたと聞くと納得である。

*3:さすがにぼかしはかかっていただろうが、視力が良くないので気に留まらなかった

*4:(加えて作中では明示してないしそのあたりは多くの二次創作(私のは歴史創作だが)よろしくうやむやにしたものの、設定を考えれば不貞行為でもある)

2023年・私的ベスト映画5選

2023年は映画を見た一年だったので、印象に残った作品をまとめる。新作として映画館で見た映画に限った。また順位はつけたくなかったので、紹介順は順不同である。

私、オルガ・ヘプナロヴァー

この1年、いやこれまで見た映画の中で最も影響を受けた作品だ。初鑑賞後に映画館を出てから今まで、映像やオルガの目線,、個々のエピソードや言葉が心に焼き付いて離れることがない。特に夜の森の暗闇を車で走り抜ける彼女のシークエンスはある種の原風景のように私には感じる。同情や共感を拒絶する作風だとは思うが、それでもオルガの「上手く行かなさ」が我が身のように思えてしかたなかった。彼女があの行動に及び、私が(まだ)やっていないのは単に私の方が「運が良かった」からにすぎない。

音楽はほとんど使用されないが、それだけにイトカとデートしたクラブで流れたCollegium Musicumの曲が非常に印象に残った。

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Pearl/パール

ホラー映画だが、恐怖や不快感ではなくパールの辛さと諦めがひしひしと感じられた。牢獄か独裁国家のような実家から出たいと願うのは当然で、そのために結婚したのに叶わなかった失望は大きかったろう。夫が爆死する様を夢想しながらそれでも心から「愛してる」と言う事に何ら矛盾はない。腐ってウジの湧いてゆく豚料理が象徴していると思うが、仮にパールに元来「変」なところがあったとしても、それをここまで極端にしたのは母親の過度な抑圧ではないか。それだけに、自分が「おかしい」「変な人」ではないかと悩んだパールが自らを追い詰めていく様はいたたまれなかった。どこかで何とかならなかったのか、とやりきれない気持ちを抱いた。

テス (4Kリマスター版)

オリジナル公開は1979年なので「新作として映画館で観賞」に入れていいのか疑問の余地はある。それでも非常に心に触れたので入れることにした。ハーディの原作は英米文学の中で5本の指に入るほど好きだが、映像版も非常に素晴らしかった。冷静に考えればエンジェル・クレアは(自分の行動は悪いと認識し、責任を取ろうとする)アレック以上に酷い奴であり、小説以上に映画ではテスへの仕打ちに腹が立ってしかたなかった。だがテスは「アレックは嫌いでエンジェルを愛している」という自らの気持ちに正直に生きたのだろう。エンジェルと再会し、アレック殺害後二人で駆け落ちする場面には感極まってしまう。社会の「倫理規範」に従って一度はテスを拒絶したエンジェルが、他人の家のドアを破壊し殺人犯となったテスと愛し合う場面が印象に残っている。ストーンヘンジで眠る彼女を警察が発見し、「眠らせてやってください」と言うエンジェルと、目覚めたテスが「準備はできています」といい逮捕されるラストシーンでは、私にしては珍しく涙が止まらなかった。(原作でも、ここからラストまでの場面はいつ読んでも泣いてしまう)

野球どアホウ未亡人

前述の3作とはうってかわった不条理(?)ギャグ(?)スポーツ(?)映画。野球好きは一度は観て「野球とはなにか」「どうして我々は野球に惹かれるのか」考えるべきだと思う。「野球」には何をやっても許してくれる度量の広さがあるのだとしみじみと思った。(cf. 以前の感想記事

ロスト・キング

以前の記事にも書いたが、こちらは歴史好きが一度は見て「歴史人物を愛するとはなにか」考えるべき一作。リチャード3世の熱狂的ファンが主人公ながら、一方的に彼やリチャーディアンを称揚しないバランス感覚に好感を覚えた。「歴史に善人も悪人もいない」というメッセージは忘れずに心に刻んでおくべき。その上で「この人が好きでもっと知りたい、愛したい」という思いも大切にしたいと思った。私自身はイギリス史は全くもって詳しくないが、それでも史実と歴史モノの関係や、歴史を考える上でのルッキズムの問題は世界共通なことに唸った。派手なアクションやはっきりとした悲劇/喜劇性はないが、楽しく見られた作品だった。

 

今回は「新作として映画館で鑑賞した作品」に限ったが、名画座やサブスク、映像ソフトでも様々な作品を鑑賞しかなり満足している(特に見られてよかったのは「王妃マルゴ」「LETO」「ペット・セメタリー(オリジナル版)」「愛の嵐」。あとNHKBSでやっていたクリント・イーストウッドのアクション映画も好きです)。映画館関連だと名古屋シネマテークの閉館は本当に残念だったが、それでも跡地に新しい映画館プロジェクトが発足したのは嬉しい。

2024年も期待の作品はすでにいくつかリストアップしている。(「哀れなるものたち」「ラ・メゾン」「Winterboy」あたり)年末年始は忙しいのでいつ映画館にいけるか定かでないが、さて何から見ようか。

墓の彼方からの愛とクィアな欲望―ミシュレ『革命の女たち』

このブログでデタラメだ作り話だと何かにつけ批判しているジュール・ミシュレLes Femmes de la Révolution (1854)(邦訳『革命の女たち』なおネットで公開されている。)だが、文学作品として面白いのは否定できない。

オランプ・ド・グージュのイメージ受容に関するドイツ語の論文によれば、本作品で描かれる女性たちは「ミシュレが理想に従って作り上げたもので、実在の人物とは何の関係もない*1」。だから私がいちいち文句を付ける必要もない。とはいえ、この本のせいでガブリエルやルイーズ*2はなんの面白みもない「平凡な妻や母」「可哀想な人」として扱われがちだ。私はそれが腹立たしい。

さて近頃、Les Femmes de la Révolutionのガブリエルとルイーズの項に19世紀の「墓場系」文学作品への文化的リファレンスがあるのではないか?と思い当たった。また初読時から、私はこの文章に対して、いわば「クィア」とでも呼ぶべき感覚を拭い去ることができない。

だから愛憎半ばするこの文章に対し、思ったことを一度まとめてみる。

先行作品からの影響

これはエミリー・ブロンテ嵐が丘』(1847) やエドガー・アラン・ポー「ライジーア」(1838)の影響を受けているのではないかと、ふと思い当たった。もっともミシュレがこれらを読んでいたという確証はどこにもないので、学術的根拠はないのだが...

「ライジーア」: 死んだものに支配される結婚

「ライジーア」と共通する要素としては、黒髪の先妻と金髪の後妻は、黒髪のガブリエルと金髪のルイーズだ(肖像画がそう描いているので、ミシュレの創作ではない)。先妻を亡くし社会性を失う語り手は革命に対する興味を失ったダントン。豪奢な館は、収賄汚職の噂の絶えない彼の贅沢な生活を思わせる。夫を恐れる後妻ロウィーナはそのまま夫を恐れるルイーズ。「忌まわしき蜜月」。

Les Femmes de la Révolution

確かに言えることとして、彼女は夫に勝ったのだ*3

という一節は、ロウィーナと過ごしていてもライジーアの想像に浸る主人公や、ロウィーナの死体の上にライジーアが蘇るラストシーンを思わせる。Les Femmes de la Révolutionでも、ダントンが生涯愛していたのはガブリエルだったのだろう。彼はガブリエルが愛すよう命じたから、ルイーズを愛したのではないか。ミシュレが主張するように、ダントンの失脚がルイーズのせいだと言うのなら、彼の破滅を望んだのは全てわかっていたガブリエルだ。

もっともガブリエルはライジーアと違い、ルイーズを犠牲にして自らが蘇ろうとは考えもしなかっただろう。なおガブリエルとルイーズの関係については後述する。

嵐が丘」:フランス版ヒースクリフとしてのダントン?

エミリー・ブロンテ嵐が丘』を読んだのはごく最近のことだ。29章のヒースクリフの独白まで読んだとき、どうしてもガブリエルの墓を掘り起こすダントンを思い浮かべずにはいられないかった。何も証拠はないのに、ミシュレは『嵐が丘』を読みその答えとしてこの章を書いたのではないかと思わずにはいられない。例えば以下のような対応を発見した。

ミシュレ

遅すぎたことは見越していた、家は空っぽで子どもたちに母親はおらず、あんなに激しく愛した身体は棺の底にあるのだと。ダントンは霊魂などほとんど信じていなかった。彼が追い求め、もう一度会いたいと願ったのは身体である*4

ブロンテ:

「夜明けから夜明けまで、またおれのところへもどってきてくれと彼女[キャサリン]にたえず祈っていた。彼女の霊にたいしてだ。おれは、幽霊はいると本気で信じている。おれたちのあいだにいてもおかしくはない、いやぜったいにいると確信している!*5

ヒースクリフの霊魂信仰に対し、ミシュレはダントンを肉体信仰の人として描いた。もっとも、ダントンの「肉体信仰」はまるきりミシュレの創作ではない。史実のダントンがガブリエルの肉体的形跡を追い求めた節があることは、ヴィクトル・シャルパンティエの手紙からうかがえる。霊魂の方を信じていたか否か、判断できる一次資料は今のところないが...

また死体の描写に関しても、以下のような呼応が見られる。

ミシュレ

その身体を彼は土から引き剥がした。七日七晩も経ったあとで蛆虫から奪おうとして、無惨なまでに朽ち果てていた身体を、彼は狂ったように抱いたのだった*6

棺を覆う布に包まれて彼は抱いたのだ、その青春、幸福、財産であったものを。彼は何を見たのだろうか。彼が抱きしめたのは何だったのか(七日も経ったあとで!?*7

嵐が丘』:

「お前は、おれがそんな変化を恐れると思うか?柩の蓋をもちあげたときのおれあ、そういうかわり様を覚悟していた。だが、おれも柩の中で一緒に朽ちはじめるまでは、彼女も朽ちはじめそうにないのを見たあとでは、なおさら嬉しい*8

ヒースクリフが「キャサリンの遺体は全く傷んでいなかった」と言うのに対し(彼は正気であるとは言えないので、本当のところどうだったのかはわからない)ミシュレはガブリエルの遺体が「無惨なまでに朽ち果てていた」ことを強調する。何の意図をもって彼がこのことを繰り返すのか定かでない。ロマン主義が好んだ「死体と愛」の幻想を打ち砕こうとしたのだろうか。だが腐り果ててもなお彼がガブリエルを強く抱擁したことは、より一層ダントンの愛の強烈さと異様さを浮き立たせる。

澁澤龍彦だったか、フランスはゴシックや怪奇小説不毛の土地だと書いていた。確かにイギリスやドイツに比べ、フランス文学の「怪奇もの」の名作を思い浮かべるのは難しい。メリメ「イールのヴィーナス」やモーパッサン「オルラ」、モーリス・ルヴェルくらいか?バルべー=ドールヴィイヴィリエ・ド・リラダン、グラン=ギニョル座のアンドレ・ド・ロルドは「生きている人間の怖さ」を主眼に置いている。ガブリエルの霊が登場するわけではないのだから、この物語もダントンの狂おしい愛情という「人間の執念」が主題だ。とはいえこの章は下手な文学作品よりもフレンチ・ゴシックの名作になり得たし、ジョルジュ・ダントンはフランスの代表的ゴシック・ヒーローにもなれたかもしれない(現に私は彼をそう思っている)。

だがミシュレはあえてその可能性を潰そうとしたように思える。Les Femmes de la Révolutionという本の趣旨を逸脱するからだろうか。ダントンにゴシックは似合わないと考えたからだろうか。彼はそうあってはならないと考えたからだろうか。後世の人々はダントンに、必ずしも史実に基づかない「男らしさ」を押し付けた。ミシュレも主犯格の一人と言って良い。

とはいえ、ヒースクリフにはダントンを思わせるところが他にもある。ヒースクリフの死の直前に発せられた

「この頑健な身体、節度のある生活、危険のない職業。おれは髪がほとんど真っ白になるまでこの地上にいるのが当然で、事実そうなるだろう。だがこんな人生がつづくのはやりきれん!息をするのも辛く、それどころか心臓がうごいていることさえ思い出さなくてはならない人生なんだからな!*9

という独白は、「スポーツ選手のような頑健な体躯を自然から与えられた*10」とかつて自分で語ったダントンが裁判時に発したとされる

「俺にとって人生は重荷だ。下ろしたくてたまらない*11

という台詞を思わせる。個人的には長谷川哲也『ナポレオン』におけるダントンのモデルの一人はヒースクリフではないかと思っている。

反対にエミリー・ブロンテヒースクリフの人物造形にあたってダントンから着想を得た可能性はないのだろうか。「デカい不細工な奴が王を殺した」くらいに単純化された風説は出回っていそうだし、ガブリエルの胸像制作にまつわる話も噂として出回って可能性もある*12


もっともこの本の中でジョルジュとガブリエルは傷つけ合うことなく愛し合っていたようだから、『嵐が丘』にたとえればキャサリンヒースクリフというより、ヒンドリーとフランセスにも近いのかもしれない。彼らはこの小説の中で唯一、束の間とはいえ肉体的(=温かい肌の触れ合いによる)幸福を実現した。

私がミシュレの文章を憎み切ることができないのは、生前は離れることなく愛し合っていたとしても、いやだからこそ墓を暴くような狂おしい情念にとらわれるのだということを示したからだろう。

ルイーズに恋をしていたのは誰か?

ミシュレはかき消そうとしているものの、私は初めて読んだときから"クィア"(この言葉が適切か否かはわからない。だがこう呼ぶのが一番近いように思う。本当はこの言葉も私の覚える感情や感触を十分に反映していないが。)な感覚を覚えてやまない。

どこに覚えるかといえば、夫がルイーズと再婚することを熱烈に望んだガブリエルに。

いくら「夫を幸せにしたかった」「子どもたちに新しい母親を作ってやりたかった」「王党派のカトリックで、革命を止めたかったから」*13と言われても、結婚している女性がその夫の再婚を望むのは変だ。しかもその相手として、その相手に好意を抱いてもいない少女を持ち出してくるなんて。

日本語訳を読んだ時点で「夫がルイーズに恋しているとガブリエルは思っていた」と解釈していたが、あまりに唐突ではないかと頭を捻った。前章でそんな感情は一切言及されていないのに。さらに本作の英訳(あるいは翻案)で、「ガブリエルは夫がルイーズに恋していると思い、二人を結婚させてやるために死んだ*14。しかしダントンがルイーズに初めて会ったのはガブリエルの死後のことで、それまでは全く面識がなかった」と書いてあるものを読んだ。彼女は思い込みで命を失い、周りの人物を不幸にしたことになる。

もっともミシュレの原文を当たると、この時点でダントンがルイーズに夢中になっているとは必ずしも書いていない。

L’aimant avec passion, elle devina qu’il aimait et voulut le rendre heureux*15.

L'aimant...はelle [=ガブリエル]にかかり、代名詞L' (=le)は文中のil、つまり彼女の夫であるダントンだろう。il aimaitの目的語がないのが気にかかる。この時点でダントンの相手はルイーズと断定されてはいないのだろうか。夫が誰かに恋をするだろうと思った彼女は適切な相手を見つけることで夫を幸せにしたかった、ということだろうか?この後の箇所を読んでも、ダントンがルイーズの存在を知ったのはガブリエルの死後にすぎないようだ。ダントンの頭の中を支配していたのは、最後までガブリエルだったように読める。そしてルイーズを熱望していたのはガブリエルだ。

ルイーズに恋をしていたのはガブリエルではないのか?彼女の苦しみと死の原因も、もしかするとそこにあったのではないか?革命が起こったとはいえ、18世紀だ。同性愛はまだ「恥ずべき悪徳」だっただろう。年齢差の問題もある。彼女の母親とガブリエルはほぼ同い年だ。だがそれ以上に彼女が耐えられなかったのは美に関する自己矛盾だったのかもしれない。「醜い」とフランス中から笑われている夫を「美しい」と主張してまで愛していたのに、今更美少女に惚れ込んでしまうなんて。しかもミシュレが言う通り、ガブリエルはジョルジュのこともいまだ激しく愛していた。あらゆる意味で自分の願望を実現することが不可能だと絶望した彼女は、愛する夫に自身の欲望を代行させようとしたのではないか。

ガブリエルが平凡な人物ではないことはミシュレも書いていた。

平穏で楽な暮らしをしていたのに、この女性は危険を冒したいと望む天分があった。[...] 気取らないが豊かな心を持つこの女は、この闇と光の天使を捕らえ、深淵を超え、狭い橋を渡っていった...だが彼女はそこで力尽き、神の手に落ちていったのだった*16

詩人を形容するような言葉ではないだろうか。彼女はランボー『地獄の季節』の語り手のような人物なのだと思った。ミシュレは彼女が「普通の女性」ではないとわかっていたのに、無理くり「母性」「優しさ」という「彼の理想とする18世紀の女性」の枠に押し込めてしまった。

ルイーズはなぜこの結婚を受け入れたのか。父親に売られた?半ば強制された?ガブリエルのためではなかったか?彼女がガブリエルをどう思っていたか、不自然なほど全く触れられていない。ちなみにクロード・デュパンと再婚したルイーズは、息子に「アントワーヌ・ルイ・ガブリエル」と付けた*17。この組み合わせに、彼女の影を見て取ることはできないだろうか。

史実ではこの再婚がどんな事情の下で行われたか判然とせず、ダントンがルイーズをどう思っていたかも定かでない。ヒレア・ベロックは「ダントンは彼女を愛しておらず、非宣誓神父の元での挙式に同意したのはどうでも良かったからだ*18。」とまで書いている。ルイーズとガブリエルがどの程度親しかったのか分かる史料も今のところほぼ確認されていない。

だからガブリエルの感情は私のでっち上げだ。だがLes Femmes de la Révolution自体が実在の歴史人物とは何ら関係もなく、アントワネット・ガブリエル・シャルパンティエの名前も出てこないのだから、これくらい想像しても許されるだろう。

 

ここまで長々と書いてきたが、いずれも根拠のない想像である。より現実的に考えれば、この2章の執筆に関する一番有り得そうな説は「ミシュレは自身の私生活を正当化するためにダントンに自らを重ねた」と思う。歴史家は最初の妻を顧みなかったため、彼女はアルコールに溺れ亡くなったらしい。ミシュレは罪悪感からか、彼女の墓を掘り起こし改葬したという。その後彼は30近くも年下の博物学者、アテナイス・ミアラレと再婚した。ミシュレはダントンの私生活を持ち出すことで自身の最初の妻に対する後ろめたさを解消しようとしたのではないか。それから再婚について「ルイーズと違いアテナイスは聡明で自分を愛している」と正当化しようとしたような気がする。ジュールとアテナイスの結婚生活についての意見は特段持ち合わせていない。だがもしこの説が理にかなっているとしたら、自らの正当化に無関係の歴史人物を持ち出し、「歴史」と称するのはどうかと思う。

*1:ちなみにこの論文ではガブリエルの名前が一度も出てこないことも指摘される。とはいえ「ダントンの最初の妻」と呼び続けるのはまどろっこしいので、本稿では本作品に登場する彼女も「ガブリエル」と呼ぶことにする。

*2:ミシュレをはじめ、様々な歴史の本でルイーズ・ジェリーは「16歳の若妻」と書かれている。しかしパリ市の証明書アーカイブ(結果にリンクが貼れないため、気になる方は「naissance」を選択し、03/03/1776と入力して検索してほしい)によればルイーズの生年月日は1776年3月3日であり、1793年6月に結婚した時には17歳である。

*3:Jules Michelet, Les Femmes de la Révolution, 1898, chap.21.なお日本語訳は本稿著者が行った。

*4:Les Femmes de la Révolution, chap. 20.

*5:E. ブロンテ, 小野寺健訳『嵐が丘』,光文社古典新訳文庫, 2010, 下巻, p. 304.

*6:Les Femmes de la Révolution, chap. 20.

*7:Les Femmes de la Révolution, chap. 21.

*8:嵐が丘, 下巻, p. 304.

*9:嵐が丘、下巻, p. 381-382.

*10:"Substitut du procureur de la Commune", La Patrie est en danger, 1893.

*11:"Jugement de Danton", La patrie en danger.

*12:ミシュレフランス革命史』以前に執筆された『ダントンの死』の作者ビューヒナー(ドイツ)が墓暴き事件を知っていた可能性を指摘する論文を読んだことがある。

*13:いずれの主張も裏付ける史料は確認できない。

*14:自殺をほのめかしているのだろうか?

*15:Les Femmes de la Révolution, chap. 21.

*16:Les Femmes de la Révolution, chap. 20.

*17:ちなみにこの再婚で娘も生まれたが、この子は「カミーユ・アントワネット」と名付けられた。ルイーズの脳裏にかつて付き合いがあっただろうカミーユ・デムーランがいたのかどうかは分からない。

*18:Hilaire Belloc, Danton, p. 282.

『野球どアホウ未亡人』"野球"の快楽に堕ちてゆけ(ネタバレあり)

※大いにネタバレしています。

先日、刈谷日劇で『野球どアホウ未亡人』を観た。

youtu.be

この映画を知ったきっかけはfilmarksの「近日公開映画一覧」だった。妙にインパクトのあるポスターとタイトルに目が釘付けになった。

なんてったって「野球」で「どアホウ」で「未亡人」である。「どアホウ」なんて言葉、人生で使ったことあるか?「未亡人」なんて言葉、最後にいつ聞いた?それが「野球」と組み合わされている。冗談と野球が好きな者として、観るしかないと思った。

刈谷日劇は意外と近かった

もっとバカ笑い系のコメディかと思ったら、予想以上にシリアスで芸術性が高い(ように思えた)。

ポスターから想像されるような昭和映画の香り漂うタイポグラフィや演出、画面構成が目につく。だが監督との特訓を性的に揶揄される主人公、再会した最愛のはずの夫をあっさり捨てる、義妹の春代とのある種のシスターフッドなど、昨今のフェミニズム的映画トレンドも押さえている。

...という指摘が全く意味をなさないほど、本作の面白さは別のところにある。「野球」(我々の知るそれとは別物ではないだろうか?)に取り憑かれた登場人物たちの狂気同然の熱情。バカバカしいはずなのについ真剣に見入ってしまった。

冒頭で開陳される重野の野球論には、私が反吐が出るほど嫌いなマラルメデリダ、あるいは関連する日本の思想家どもの文章を思い出して苦笑いした。これだけでつかみはOK。

そもそもこの映画は7名しか出演していない。野球って9人×2チーム=18人いなくてもできるんだ!と涙が出てしまった。まともにベースが映るのも、最後のホームランしかなくないか?

夫を捨てる場面で夏子が吐く「兄妹そろってつまんねえことほざきやがって。私こそ野球だ」(うろ覚え)だなんて、冷えた頭で考えれば全く意味がわからない。だが私はこの場面で感動を覚えた。

それまで「玉砕カミソリボール」なるピッチングの特訓をし、ピッチャーとして頭角を現してきたはずの夏子なのに、最後はなんとバッティングで重野に挑むことになる。彼女がバットを握るシーンなんて全くなかったのに。

「パイリーグ・ボール」が彼女の胸を直撃するが、それでも夏子は「いい球だ」と不敵に笑う。2球目。夏子の放った打球は重野を直撃して爆発する。映画における爆発とはそれだけで正義である。

「義姉さんはホームランボールになったんよ」春ちゃんのセリフにカタルシスを覚えた。実際はグランドをそれなりの速さで走っているだけ、とは言ってはいけない

「その後夏子は大リーグへ行き、アメリカに彼女の銅像が立つ予定である」とキャプションが入って終わる。夢は大きく、目標は高く。これくらいの大団円でなければロマンに意味はない。

野球好きは人生で一度は見るべきだと思う。我々の知る野球とは違っても、そこには「野球の快楽」が我々を待ち受けている。特に東海圏のみなさんは今すぐ刈谷日劇へ向かうべし。

ちなみに制作陣は野球を全く知らないと聞いたが、本当なのだろうか?

野球ものの作品を作るためには、ルールを熟知し、NPBのみならず高校・大学・社会人野球、MLBKBOCPBLキューバリーグ等々すべての野球を見、実技経験もなければいけないと私は思っていた。それは意味のないギプスにすぎなかったのだ。私は現在、フランス革命を舞台にした野球物語を書こうとしているのだが、実技経験もなければパ・リーグしか見ておらず、しかも18世紀末に野球はまだ原型しか存在せず、さらにフランスの野球人気は現在でもゼロに近い、など現実の厳しさに恐れおののいていた。

勇気が湧いてきた。私こそ野球だ。

『野球どアホウ未亡人』に限らない、野球もの全般に関する思いついた疑問

(女子野球以外で)女性野球選手が出てくるときは9割くらいピッチャーだと思うのだが、女性バッターはいないのだろうか?フィクションなのだから、どのポジションだって良いはずなのだが。だから私が今書いているフランス革命野球物語の女性主人公 (実在の人物) はホームランアーチストの内野手である。

そして創作における投球フォームって、なぜどれもこれもワインドアップなのだろうか?ワインドアップ、実際の野球ではここのところあまり見ていない気がする。

ガブリエル・ダントンを掘り起こしたのは誰か?

ジョルジュ・ダントンの妻であるガブリエル・ダントン(旧姓シャルパンティエ)が有名になったのは、死後一週間後に遺体が墓から掘り起こされ、その時に取られたデスマスクをもとにした胸像が制作されたからである。おかげで彼女の人物像は誰も知らないのに、彼女が死んだことや死んだときの顔はよく知られているという奇妙な状況が生まれた。

これが問題の胸像。石膏製だが、ブロンズ製バージョンも残されている。

1793年8月10日に開催されたサロンの目録にも「死後一週間後に掘り起こされ型どられたCitoyenne Dantonの胸像」が載っているので、彼女の遺体が掘り起こされたことは事実だと考えて良いだろう。

通説では、

「自らの出張時に妻を亡くしたダントンは、悲しみのあまり狂乱した。彼は大量の札束を渡し、彫刻家のデセーヌとともに墓地へ急いだ。彼は棺を掘り起こし、蓋を投げ捨てると妻の遺体を抱きしめた。何度も接吻し、生前の不貞や家庭を顧みなかったことを詫びた。彫刻家は死んだ女性の顔の型を取り、胸像を制作したのだった。」

というストーリーが語られている。彼が死体を掘り返す様子は、ジョセフ・シルヴェストルの絵画ダニエル・ヴィエルジュによるミシュレ『フランス革命史』の挿絵に描かれている。

だがガブリエルの胸像は、本当に夫の願いによって作られたのだろうか?私はジョルジュの依頼によるものだという同時代の史料に出会ったことがない。ここでは、この作品の制作をめぐる様々な可能性を、資料を紹介しながら考えたい。

  • 失われた身体を求めて―ジョルジュのあまりに深い悲しみ
  • 彫刻家デセーヌ―困惑した聴覚障害者か、熱狂的な革命支持者か?―あるいは、フランス革命デスマスク
  • 悪名高いスキャンダル?革命の殉教者?
  • 余談(長谷川哲也『ナポレオン』の話)
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歴史には善人も悪人もいない『ロスト・キング 500年越しの運命』

映画の『ロスト・キング 500年越しの運命』を見た。

歴史好き、特に

・毀誉褒貶が激しい人物が好き/興味がある

・史料が少なく、どんな人だったのかよくわからない人物が好き/興味がある

・歴史創作好き

におすすめしたい。

この世にはいい人も悪い人もいない

この映画のテーマは「不当に蔑まれた(ている)人物の再評価」だが、同時に「実際の人物像を超えた過剰な美化」にも警鐘を鳴らす。

「歴史は勝者が書き換える」というフレーズは正しいかもしれないが、チューダー朝寄りの主流派のみならず、リチャーディアンもまた陰謀論紙一重の極端な称賛に足を突っ込んでいる。

彼らの極論に疑問を呈すのは、それほど歴史に関心のないフィリッパの元夫ジョンだ。

「なぜ皆誰かを神聖化するか極悪人にしたがるのか?良い人も悪い人もおらず、ほとんどの人間はその中間なのに。マザーテレサもミルクの蓋を締め忘れたことがあっただろうし、チンギス・ハーンがゴミ拾いしたこともあっただろう」(うろ覚え)

という彼のセリフが一番心に残った。

他の歴史人物と同様、リチャード3世を(2010年代の)善悪という観点から裁くのははっきり言って無意味だ。(そもそも、そんなことは不可能である。)フィリッパに甥を殺したのかどうか尋ねられた(想像の)王が無言で去っていく場面も、その問いを観客に提示した。主人公はこの王を完全無欠な名君だと理想化していたが、甥の殺害が彼の指示によるものかはさておき、中世の国王という立場にいた実際のリチャード3世は、一切汚いことをせず世を渡っていくことはできなかっただろう。

結局のところ善悪は判断する者の価値観や好み、あるいはその時代・地域・環境に大きく左右される。ラディカルな共和主義者や社会主義者アナキストなら「人は罪なくしては王たりえないのだから、王であるだけでリチャードは罪人だ*1」と言うかもしれない。

歴史人物を好きになることは楽しいことだし、好き嫌いには各々の主観が入るのは当たり前だ。しかしながら完璧な聖人も完全なる悪人も存在しないのだから、歴史として考える上では善悪という尺度に基づいて極端な見方に傾くべきではない。

歴史人物のルッキズム

主流派もフィリッパも、リチャードの評価において容姿をあまりに重視していたことが気になった。主人公は「彼の背骨は曲がっていなかったかもしれない」「彼はハンサムだ」と主張する。ジョンに「チューダー朝が歪めた肖像画」と「本来の肖像画」を見せ違いを力説する場面があるが、正直なところ私には違いが全く分からなかった。あとでネットで確認したが、それでもあまり変わらないと思う。(もっともジョンもそう感じており、それが上述の「いい人も悪い人もいない」という発言につながったのかもしれない。)また主流派の歴史家たちも、「彼は背骨が曲がった醜い暴君だ」と主張する。彼の容姿ばかりが取り沙汰されているので、「不細工だが魅力的な人間は存在しないとイギリスの人々は思っているのか?」と腹が立ったほどだ。

だからこそ背骨の曲がった遺骨を見つけたフィリッパが「それでも彼は完璧だ」「背骨が歪んでたら性格も歪むというのか」と言うようになった意義が大きい。

史実と歴史創作の関係

歴史創作・歴史モノの功罪も大きなテーマである。

フィリッパがリチャード3世を愛すようになったきっかけはシェイクスピアの戯曲だ。作中の3世が「コンプレックス故に心が歪み悪事を重ねる人物」として描かれていることに彼女は疑問を持ち、歴史にのめり込んでゆく。

しかしながら、いくら偉大な劇作家とはいえ、シェイクスピアの史劇は言ってしまえば単なる歴史創作である。その主人公も「シェイクスピアが創作したリチャード3世」に過ぎない。にもかかわらず歴史研究家の間で、(アカデミアの研究者も含め)「シェイクスピアがそう書いているのだから、彼はコンプレックスに満ちた極悪人だ」あるいは「シェイクスピアが彼を不当に歪めた」という主張を交わすのが不思議だった。彼らは現実の歴史とフィクションの区別がついていないのだろうか?私は文学研究をかじっているが、むしろ文学の領域の方が、「フィクションの登場人物」「モデルとなった現実の人物」「実際の作者」「周囲や後世に作られた(あるいは自己演出による)作者のイメージ」を意識して区別しているのではないかと思った。

だから、リチャード3世の再埋葬式で俳優を見つけたフィリッパが、その演技を褒める場面は、「歴史は歴史、フィクションはフィクション。史実とは区別しなければならないが、一概に否定すべきではない」というバランスの取れた見方に落ち着いていてよかったと思う。

===

本作は従来不当に貶められたリチャード3世という人物の再評価の過程を題材としているが、彼への極端な美化・称賛に傾くことを回避し、歴史人物について考え・愛するという行為を公平な見方で描いた良作だと思った。

 

ここからは私の大好きなフランス革命に関連付けた話です。長いので分けました。

*1:元ネタはフランス革命期、1793年の元・ルイ16世裁判におけるサン=ジュストの演説。

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