Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

スタニスワヴァ・プシビシェフスカ『ダントン裁判』感想

スタニスワヴァ・プシビシェフスカ『ダントン裁判』の英訳版を読んだ。

nupress.northwestern.edu

アンジェイ・ワイダ監督の映画『ダントン』の原作だが、映画化にあたりかなり改変を加えているため共通しているのは3割程度だろう(体感)。

プシビシェフスカはポーランドの劇作家でロベスピエールの熱狂的崇拝者だった。作者は幼い頃からこの人物に魅力を感じていたらしいが、作品では20世紀前半にロベスピエール再評価(と裏返しのダントン批判)を進めた歴史家アルベール・マティエの影響を大いに受けている。

台詞回しの巧みさや深刻な物語に笑いどころを付け加えるユーモアセンスなどが優れた文学作品であり、フランス革命を題材にした文学作品の最高峰と評価する者が多いのもうなづける。それはそうなのだが、それでも読み進めるうちにどこか居心地の悪さを感じた。その居心地の悪さはどこに由来するのかといえば、ダントンは作中の悪であり憎しみの対象にされるべき人物なのか?という疑問である。

みんなの(あるいは作者の)憎しみの対象に選ばれた、破壊されたダントン

ロベスピエールは最高の革命家で人類における天才である一方、ダントンは腐敗しきった政治屋で倫理的にも劣っており、負けるべき存在であるという作者の意図はこの戯曲(あるいは作者の作品世界)において明白である。

しかしながら劣った憎むべき悪役であるはずのダントンは時折「殴られ続けた孤独な人間」として、その傷と悲しみを痛々しく露わにする。

例えば第三幕。「若い私の年齢も考慮せず、親から私を買って強姦した」「醜いお前が私に歓びを与えられるわけがない」と主張する彼の妻ルイーズに対し、彼がうめいたセリフ

今の彼女はなんという幸せを感じているのだろう... 俺の死を予感して、彼女の目は微笑んでいる!、畜生!こいつは妻のはずじゃないのか...本当に、俺は独りだ... 

フェミニズムの観点からは性被害を受けたと主張する女性を疑ってはいけないのだろう。が、私はどうしても苦しむダントンの方に共感せずにはいられなかった。もっとも、これは私の全くの個人的理由からである― ダントンが言われたことのほぼ全てが私が9歳か10歳の頃にバレエ教室で受けた扱いに酷似していた。忘れていたと思っていた、あるいはほとんど忘れさろうとしていた辛い記憶が蘇った。

「傷つけられ続けた」ダントンの姿は第5幕でよりはっきりと示される。夜に皆が寝静まったコンシェルジュリの牢獄で、

マグがきちんとセットされている限り*1、君はその中でひっぱたかれるべきだよ

と彼は自分に向けたうわ言を口にする(おそらく、心あるいは無意識の中で誰かに言われているのだろう)。しばらく自分の「滑らかで、キメの細かく、壊れていない」喉の皮膚を心から愛おしむように撫でるが、我に返った彼は赤くなった自分の皮膚を見て、

当たり前だ!殴られたら皮膚は赤くなるものだ...どうして殴打だけを感じていなければいけないんだ.....バカめ!

と嘆く。彼が自ら「どうして殴られ続けなければいけないの」と本心を吐露していることは注目に値する。物理的に、あるいは心無い言葉によって常に殴られ、傷つけられてきたであろう彼のことを思うといたたまれない。

傷つけられ続けた心はもとに戻らない。彼は腐った偶像かもしれないが、腐ったのもみんなが作った傷が化膿したからではないか?破壊された魂が何をするか思い知るがいい。

不思議なのはダントンを嫌いなはずの作者が彼をかくも共感を呼ぶような痛々しさを持つキャラクターに作り上げたことだ。彼が憎くて、どうしてここまで同情的に描けるのだろうか。

報われぬ愛

彼がここまで傷つけられた一因は、カミーユ・デムーランの存在だろう。ダントンが『ヴィュー・コルドリエ』紙を自分の利益のために利用したのも、彼の行動を誘導したのも事実ではある。しかしながら、彼はそれ以上の思いをカミーユに抱いていたのではないか。

前提として、作者によれば、カミーユロベスピエールは互いを愛しているのだが、「革命のために個人的なことをすべて捨て去ろうとする天才」であるロベスピエールの愛は昇華され人間の次元を超越していたため、カミーユロベスピエールの態度に不満を持ち、褒めてくれるダントンに近づいた。だがロベスピエールはそれが気に食わず、カミーユに「彼の友情は偽りだ」と言い続ける*2ロベスピエールが中心となって回るプシビシェフスカの作品世界では彼の言葉や考えはすべて正しいので、ダントンはカミーユを愛してはおらずただ道具として利用しているだけである、ということになっている。

だが私はそうは思えない。適切な愛とは呼べないかもしれないが、それでもダントンは本当にカミーユのことが好きだったと思う。例えば二幕二場:

ダントン:どうしたの?ダントンは死んだ?葬られたの?
カミーユ:[熱意に満ちて] 一時も君を疑ってなんてないよ!ジョルジュ、さっきの信じがたい盲目を許してね。
ダントン:[彼の腕をつかむ] 怖かったんだね。よくある恐怖さ。でも今日は新しい勇気を得たんじゃないのか?またペンを取る気になったろ?
カミーユ:ダントン、君にだってそんな冗談は許さないよ。
ダントン: [彼を抱きしめる] 何、許してくれないの?[さらに強く抱きしめる] まだ許さない?
カミーユ:[うっとりして] うん、うん...ああ!
[略]
カミーユ :[彼の手をそっと握りしめる] ジョルジュ、僕を死に追いやって。君のために死にたいんだ
ダントン: [親しげに笑う] 書けよ、死ぬんじゃなくて... 君の死体で何すればいい?

お世辞だと笑い飛ばしたものの、そう言われてダントンは実のところ嬉しかったのではないだろうか。いわば「触れ合い飢餓状態(touch stavation)」のダントンは、身体接触を喜んで受け入れてくれるカミーユが愛おしかったに違いない。もう一つ、この箇所では「埋葬」「死体」など死に関する語彙が用いられていることにも注目したい。史実のダントンは出張中に急死した最初の妻ガブリエルの墓を埋葬から1週間後に掘り起こした。劇の世界に彼女は存在しないようだが、ここにはこのエピソードが反映されているのではないか。そうだとすれば、ダントンが死に関連したボキャブラリーを彼に用いるのは強い愛情の現れであり、カミーユと一緒に死ぬことを決意したのはこの場面ではないかとすら私は思う。

二人の関係でむしろ不実なのはカミーユの方ではないか。前述のような愛情関係が前提の劇中で、カミーユがダントンに好意を向けるのはすべてロベスピエール絡みであり、言い換えればカミーユの背後には必ずロベスピエールがつきまとうのだ。カミーユもまた「触れ合い飢餓状態」なので、スキンシップを与えてくれるダントンに接近するようになるのだが、それはあくまでロベスピエールから受け取れなかったものの代わりに過ぎないのだという*3カミーユはダントンを「都合の良い男」扱いしていると言っても良いだろう。

三幕三場、身の危険を知らせに来たロベスピエールに「ダントンの友情は偽りだ」と言われたカミーユは、ダントン宅に押しかけ「今まで君に言った言葉はすべて撤回する。僕の目は開かれ、お前なんざみじめな悪党だとわかった」と食って掛かる。言葉の端々からロベスピエールの来訪を知ったダントンは、彼は君を救おうとしていたのだと告げる。

カミーユ:じゃあ、彼 [=ロベスピエール] は本当のこと[=ダントンとカミーユの逮捕が承認されたこと] を言ってたんだ... でも何で...?
ダントン:何で君を救おうとしたかって?信じられないことだ ― だが俺には白日にさらされたように明らかさ。君はあの怪物が愛した唯一の人間だからだよ... [カミーユの嗄れたため息] 絶望的で痛いほど真実の愛でね。
[長い沈黙]

カミーユ:[震え上がり、突然神経質な喜びの叫びが沸き起こる] そんな、まさか!![少しだけ自制する] ダントン、このことを教えてくれたから、君のことは全部許してあげる。

ダントンにとってはあまりにも残酷ではないだろうか。好きな人が自分を許してくれる理由が、自分ではない、しかも自分が気に食わない人が彼を愛しているからというのは。許しと和解を請いに行こうとするカミーユに、ダントンはもう手遅れだから諦めるよう言い聞かせ、彼は従う。もちろんダントンには損得勘定から彼を自分の側に置き続けたい気持ちもあったろう。だが計算を超えて、ダントンは彼に自分のそばにいてほしい、ロベスピエールのもとに行ってほしくなかったのではないだろうか。

現に帰宅するカミーユを見ながらダントンは突然笑い出すが、その目はうつろで悲しげだった。この直後にルイーズに対して言い捨てた

ロベスピエールは俺の敵で、それゆえ彼はあんたの熱烈な同情の対象であるに違いない...あんたは喜んで彼に身を捧げさえするんだろうな?

という台詞も、ルイーズとロベスピエールに面識がないことを踏まえればやはり彼のもとへ向かおうとしたカミーユが念頭に置かれているように思われる。

前述の「どうして殴られ続けなきゃいけないんだ」の後、彼は話しかけてきたフィリポーに本心を吐露しはじめる。以下はその一節である。

フィリポー:だけどどうしてあんたはあの少年を救うことに反対したんだ ― 理由もないのに、どうして自殺する羽目に陥らせたんだ?
ダントン:[カミーユに軽蔑するような目線を投げ] ロベスピエールを喜ばすべきだったと思わないか?それに、デムーラン自身にとっても、売春するより死んだほうが良いだろうさ。
フィリポー:[はじめは理解できなかったが、やがて悲しげに笑いはじめる] ああ、ダントン、君は!!
ダントン:[大いに傷ついて、自分のベッドに戻る] おやすみ。

軽蔑しているのだから、彼はカミーユを愛しているわけではないという主張がしばしなされる。しかしながら、軽蔑してなお愛し続けるということは奇特な感情ではないはずだ。カミーユからの好意がロベスピエールありきのもので、自分が彼の愛情を勝ち取ることができないことが分かっていたダントンは絶望していたのではないだろうか。「本当に求めるのはあなたじゃない」と示されるのはとても辛いことだ。そのくせカミーユは軽率に甘い言葉を向けるので、彼の愛を得られるかもしれないと再び期待を抱いては裏切られ、それが続いてすっかり疲れ果てていたのではないか。自身の心を守るため、カミーユはあくまで手先にすぎないと自分自身にも言い聞かせていたのではないか。それでも、彼を愛することをやめることはできなかったように私には思える。彼の気持ちを理解したフィリポーの悲しげな笑いや、打ち明けた彼自身が大いに傷ついたことも、カミーユがダントンにとって単なる道具ではないことを示すように思われる。ただの手先に対して何度も悲しんで傷つくことがあるだろうか。

だから処刑場へ向かうカミーユがダントンに浴びせた非難と呪詛は、悲しいと同時に腹立たしく思える。

貴様は僕の才能を盗んだ!僕の人生も!それでいて貴様は盗んだ宝の使い方もわからなかった!僕が名誉を失ったのも、若くして死ななきゃいけないのも、リュシルまで死ななきゃいけないのも、全部お前のせいだ!お前のせいで、僕はマクシムに拒絶されたんだ!それで、これほどの破滅から貴様は何の利益を得た?何も!ゼロ!破壊!それだけ!貴様は自分の悪行さえしくじったんだ!

カミーユはダントンもまた自分の振る舞いで傷ついたことなど考えもしないか、あるいは些細なことだと思っているのだろう。いや、カミーユだけではない。この戯曲では誰も、彼の悲痛な魂を真剣に受け止めようとはしなかった*4ロベスピエールは偉大なる天才だが、そんな彼ですらダントンにも傷つき苦しむ心があることには思い至らなかったようだ*5

荷馬車の行き着く先

裁判にかけられる前から絶望したダントンは、憎しみと攻撃を主人公であるロベスピエールに向ける。だが彼が憎んでいたのはロベスピエールよりも(法廷で民衆を罵ったように)社会全体であるように私には思える。

だがフィリポーの言う通り、復讐を果たすために事を起こしても世界は何も変わらず、その意味でカミーユは正しかったのかもしれない。絶望し完全に破壊されてもなお、ダントンは、傷ついた心を再び隠して死ぬまで強気に振る舞わなければならない。カミーユの糾弾およびそれを受けたラクロワの言葉*6

無駄だった偽善的な人生があんたの胃に重くのしかかる―芯まで腐りきっている、ああ、ダントン、あんたは自分自身を吐き出せればって思ってる?

を受けて、ダントンは「人生に後悔はないし、自分の名はパンテオンに残る」と虚勢を張る。エローやファーブルの言うように、傷つけられ破壊されつくした心の柔らかい部分(=真実)を生贄として投げ捨てて、最後まで社会の求める嘘をつき続けることが課せられた、そんな彼の姿はあまりにも痛々しい。

エロー:ブラボー、ダントン!続けろ!何も認めるな、あんたが病気になろうと、あんたの魂が死体に被さる犬のように吠えようが!嘘をついて嘘をついて、最後まで嘘をつくんだ!
ファーブル:そのとおりだ、真実には気をつけてね。この状況でどう考えるべきかわかるかい?幻想に捧げられた生贄、無駄な生贄というのは最も美しい。宝石を身に着けたり慈善事業のために差し出すのは良いことだけど、一番美しいのは海に投げ捨てることさ。どんな真実も悲劇的に振る舞えば大目に見られる。そして悲劇を手に入れるのは、難しいことではないんだよ。

 

このような彼の姿を見て、私は実在のスプリーキラーを題材にしたチェコ映画『私、オルガ・ヘプナロヴァー』を強く思い出した。民衆人気の高い社交的な政治家と社会に馴染めない無愛想な女性のどこに共通点が?と訝しむむきもあるやもしれない。それでも、両者は思いの外近いところにいるというのが私の考えである。

妻に拒絶され続け、自身の苦しみを分かってもらえると期待したロベスピエールは耳を貸さず、あてどなく苦しむダントンの姿は、私には精神病院で理由もなく袋叩きにされ、家庭や最初の職場でも理解してもらえないオルガの姿と重なった。カミーユの関係もオルガと最初の恋人イトカによく似ている。彼女が他人の感情を何とも思っていないことは給与受取列に並ぶオルガの前に遠慮も何もなく割り込んだことで既に明示されていたのだが、初めての親密な関係に酔いしれる主人公は気づくよしもなく、拒絶されて深く傷つくのだった。ダントンは彼女よりも観察力があるため、自分は結局カミーユの愛を得られないことに気づいていた。にもかかわらず彼は結局カミーユを離すことができず、理不尽とも言える一方的な非難を浴びせられる。ダントンの民衆アピール力はオルガの運転能力のようなものにすぎず、彼の孤独で内省的な性格を物語るものではないように思える。

絶望したダントンの行動原理は、オルガの犯行声明文と共通するものがあるように思われる。

私はひとりぼっち。破壊された者。人々によって破壊された者だ。私には選択肢がある―自分を殺すか、他人を殺すか。私は憎しみに報いることを選ぶ。無名の自殺者としてこの世を去るのは、あまりにも簡単すぎる。言葉ではなく行動を。社会はあまりにも無関心だ。残虐行為の犠牲者である私、オルガ・ヘプナロヴァーは、お前たちに死刑を言い渡す。

だが非人間的な世界に抵抗を試みた両者の復讐は成功せず、社会は何も変わらなかった。彼らは単なるニュースとしか扱われず、淡々と日常を送るロベスピエールサン=ジュスト/ヘプナロヴァー一家の姿を映して戯曲/映画は終わりを迎える。

 

冒頭でも書いたように、この戯曲はアンジェイ・ワイダ監督の映画『ダントン』(1983)の原作である。なぜ私がこの映画を好きになれないか、原作を読んだらだいぶはっきりと掴めてきた。だがこれ以上長く書くべきではないと思うので、この話題は別の記事で書く。

*1:「マグ」(英語: mug) が意味するところは不明。原文が書かれたポーランド語にそのようなイディオムが存在するのだろうか?20世紀初頭の夢分析ブームの影響を受けているのかもしれない。

*2:本作および『ヴァントーズ最後の夜』のあらすじによる。ただし後者に関して私はまだ本編を読んでいないので(幸いなことに現在ao3で英訳プロジェクトが進んでいる)、読んだら感想が変わるかもしれない

*3:これも『ヴァントーズ最後の夜』のあらすじによる

*4:ただし後述のように、フィリポーやラクロワ、エローやファーブルは彼の奥底にある苦しみそのものには気づいていたようではある

*5:もっとも作者は「天才は私生活を捨て、人類をやめることで理想や革命と一体化すべきだ」と考えていたため、ロベスピエールがダントンの苦悩に注意を払わないのは当然だと考えていた節があるようだが。

*6:とはいえ、ラクロワのこの台詞は恨みからではなく、むしろ友情や同情から発せられたように思える。彼はダントンの悪行を逮捕前から把握しており、裏切られたとは思っていないだろう。そして五幕一場から、彼はダントンの苦しみに気づいていたようでもある。