Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

ブラック校則レジスタンス?-ビューヒナー『ダントンの死』

その誠実な連中ってのが我慢ならなかったんだ。ああいうそっくり返った謹厳居士たちを見てると、蹴っとばしてやらずにはいられなくなるんだ。僕の生まれつきの気性がこうなんだからな。(p. 136)

『ダントンの死』は個人的思い入れの強い作品なので、まずは思い出話から。

ブラック校則なんて吹っ飛ばせ

私の学校はブラック校則にほぼ当てはまるような厳しい校則があった。(「ブラック校則」という言葉で束縛の激しい校則が問題視されるようになった3年くらい前の話だ)もっと我慢できなかったのは、過度な制約を受け入れるばかりか他人にも従うよう強要してきた多くのクラスメートだった。

そんな時ふとしたきっかけからフランス革命を知って、自分の置かれた状況と重ねた。家もあれば飢えとも無縁だったから18世紀末の彼らとは比較できないほど恵まれていたのだが、でも服装やら行動やら私生活に介入されることに耐えられなかった。染髪やピアスや化粧をどうしてもしたいわけではなかったが、それ以上にやることなすこと口を出されたくなかった。

だから表現の自由やその他諸々の私的自由を擁護し続けたダントンとカミーユ・デムーランは私のヒーローだった。『ロックンロール・ハイスクール』を観る前だったが、ダントンとカミーユは私にとって元祖・反ブラック校則の英雄だった。

ビューヒナー『ダントンの死』を読んだのは佐藤賢一『小説フランス革命』の第一部(第二部は刊行前)やロマン・ロランフランス革命劇より後だったと思う。時事ネタで言えば、大谷翔平日本ハムファイターズに入るのかどうか日本中が注目している頃だった。当時からファイターズファンだったから大谷が来てくれるといいなぁ、とは思っていたが目の前の「革命」に比べれば些細なことだった。

さてこの作品の第一印象は「ダントンってこんな無気力な人だったっけ」だった。ロックスターの名言じみたフレーズを口に出しつつ、「疲れた」「退屈だった」と繰り返すダントンは当時の私にとって新鮮だった。史実やら『小説フランス革命』の前半のダントンはもっと元気で活力に満ちていたからだ。

それでもなお私はこの作品やダントン像を気に入った。疲れていてもなお、彼が押し付けられる規範や生真面目さと戦おうとしたことに共感したからか。あるいは当時壁新聞を作ったりして校則の緩和を訴えても誰も何も動かない状況に疲れていた私自身の心情を、ダントンの倦怠に重ねることができたからかもしれない。

いったい君は、自分がきれいにブラシをかけた上衣を着てるからって、他人の汚い下着を洗う洗濯桶かわりにギロチンを使ったり、他人の汚れた衣服のしみを抜く丸石鹸がわりに奴ら自身の首をちょんぎったりする権利があるつもりでいるのか?そりゃあ、他人が君の上衣に唾を引っ掛けたり穴を開けたりした時にゃ、抵抗したっていいさ。しかし君に干渉しない限りは、君には関係のないことだろう?他人が堂々と好き勝手に世間を歩き回っているからといって、君にその連中を墓穴へ押し込める権利があるのかね?君は天国の憲兵かい?君のお好きな神様のように黙ってそれを見ている度量がないんなら、目にハンカチでもあてているといいよ。(p. 170)

ロベスピエールに言い放ったセリフに私はギロチンにかからずとも首が飛ぶのではないかというくらい頷いた。似たようなことを学校で言った記憶もある。

結局ダントンは敗れてあっさり死を受け入れるのだが、それでも彼やカミーユが私生活への干渉にノーを突きつけたことに私は力づけられた。

『ダントンの死』に限った話ではないが、もし史実や様々な作品を通してダントンやカミーユのことを知らなければ私は今生きていたかどうかすら怪しい。どこかで力尽きていたはずだ。だから今でも私は彼らが好きだ。

友情,死,生,リュシル

ここからは再読してからの感想だ。当時の私になくてダントンにあったのは仲間たちだ。特にカミーユの積極性がすごい。

だってそうじゃないか、たった一発ピストルを射っただけで、雷鳴のように反響があるんだから。だからこそますます君には都合がいいんだよ。僕をいつも君の身辺に置いておきたまえ。(p. 183)

就活か!とツッコミを入れたくなるくらいの自己アピールである。直前のセリフでダントンもドン引きしている。そもそもずっと生を求め続けるカミーユはなぜそれでもダントンと一緒にいるのかずっと疑問だった。死にたがっているようなダントンの投げやりさにカミーユは気づいているのに。

一方でダントンはカミーユら仲間を含めた革命家たちの真面目さに耐えられないようだった。

僕にくそ真面目なことなんて期待しないでくれ!僕には、なぜ人々が往来で立ち止まって、お互いに顔を見あってげらげら笑いださないのか、どうしても分からないんだ。つまりさ、みんな窓からだって墓穴からだって首を突き出してげらげら笑わずにはいられないはずなんだ。笑い過ぎて天も裂け、地面も転がり回るわけなんだがな。(p. 190)

誹謗中傷が社会問題として認識された一方で、ブラックジョークや野次まで問題視され取り締まられる息苦しい最近の風潮を考えると、ダントンの不平に賛同できる。

しかしダントンがこの台詞を言った相手はカミーユである。ウザがって適当にあしらっても良いのに、結局彼らは最後まで一緒で、獄中で一つのベッドに入っている場面もある。ダントンは疲れていて革命の真面目さにもうんざりしていたけれど、カミーユのことはそれでも好きだったのか。離れることのできない宿命的な友情だったのか。

一方別の場面でカミーユは逮捕を心配するリュシルを

安心しろよ、僕とダントンは一心同体じゃないさ(p. 195)

となだめるので、さっきの自己アピールは就活と同じような嘘だったのか?と疑いたくなる。

しかし逮捕後のカミーユは「生きていたい」と願い続ける。だが彼がダントンを恨むような場面はなく、友情も最後まで続くためこの台詞は浮いているように思える。古い訳では「僕はダントンとはわけが違うよ」となっており、こちらの方が「僕はダントンと違って倦怠なんて感じてないし、ロベスピエールとも仲が良い(から殺されないだろう)」という意味が込められ、前後の場面とも調和するように思う。だが比較的新しい訳はどれも「一心同体じゃない」を採用しているので、こちらのほうがドイツ語として正しい訳なのだろうか。

だとすればカミーユがわざわざダントンとの関係を否定した理由はリュシルだろう。死を拒絶し生を求めるリュシルにとって、カミーユまで死に巻き込もうとするダントンは気に食わない存在ではないだろうか。カミーユはそのことを知っていて、安心させるためにわざわざそう言ったのではないか。

死ぬ-死ぬですって!-何にだって生きていられる権利があるものよ、そこにいる小さな蚊でも、鳥でも。だのになぜ彼(カミーユ)だけは生きていちゃいけないの? (p. 274) 

カミーユの死に異議を申し立て続けるリュシルは、公安委員会あるいは民衆とは別のベクトルで、倦怠のため死をあっさり受け入れた(ばかりか、カミーユも道連れにした)ダントンに対抗する存在ではないだろうか。あくまでも死を否定し生を求め続けるリュシルの一途さはこの戯曲では異質だ。
さらに言えば、カミーユが逮捕されたあとのリュシルを「発狂した」とみなすのは何だかなあ、と思う。彼女の深い悲しみを狂気という言葉で括るのは乱暴だろう。

死や倦怠の力か、ダントン個人の魅力やこれまでの人間関係のためかはわからないが、カミーユは生を求めつつ死に引きずられていくこと、また死を否定するリュシルという反駁者が現れるのが面白い。

Who is Julie?

この作品で興味深いのは前述のようにあくまでも生を求め続けるカミーユ&リュシルとあっさり死を受け入れてしまうダントン&ジュリーの対比である。

特にジュリーという人物は中盤まであまりセリフもないので、もっとどんな人なのか知りたい。彼女が初めから決めていたかのように自殺するのがずっと不思議だった。単なる自己犠牲や夫婦愛ではないと思う。夫婦愛ならリュシルのように「どうして夫が死ななければならないのか」と世界に対して抗議するのではないか。ジュリーからはそのような死の否定が感じられない。

特に服毒後の最後のセリフでは、彼女一人だけ世界から切り離されて別のところにいるように感じた。

いつまでもこうして立っていたい―日光を浴びている時は大地はとても厳しい顔つきをしていたけど、今はまるで死んでゆく女のように穏やかで厳かな顔をしてるわ―夕日が、その女の額や頬のまわりにやさしく戯れている。大地はだんだんと色蒼めて、まるで亡骸のように大気の潮に押し流されていってしまう。この人のブロンドの前髪を掴んで流れから引き上げて、葬ってやる腕はないのかしら?わたしはひっそりと出ていくわ。大地にお別れのキスもしないわ、まどろんでいるこの女を、息づかいや嘆息で醒ますといけないもの―眠ろう、眠るのよ!(死ぬ)(pp. 270-271)

 

一方ダントンのわずかに残っていた生きる理由はジュリーだった。逮捕されたダントンが「まだ僕は死ねないぞ」と一時的に生を求めるようになったのもジュリーを思い浮かべたからだ。しかし夫の死を確信したジュリーが自分も死ぬことを伝えると、ダントンは再び死を受け入れる。

僕はひとりで旅立つんじゃない。有難う、ジュリー!(p. 247)

ジュリーの死を悲しまずに感謝するのが退廃的かつ二人の関係の独特さを示すように思う。ジュリーが自殺をあっさり選んだことでダントンも生を望まなくなった。だが私としてはジュリーが死を受け入れたことを否定したくない。

ただし冒頭で「君をお墓のように愛している」と言ったダントンに対して嫌な顔を見せ、九月虐殺の悪夢にうなされるダントンに対し「あなたは祖国を救った」と宥める彼女の姿は後半の姿と結びつかない。時に矛盾する人間の多面性の発露なのか、それとも死を忌み嫌っていた彼女は夫の逮捕のせいで死を受け入れるようになったということなのだろうか。「お墓のように愛してる」と言ったのがジュリーだったら、こんなに悩まなかったのだが。初読時なんて、ジュリーは他の人物とくらべてあまり練られてないのではないかとすら疑ってしまった。


ちなみに訳者の岩淵氏は『ビューヒナー全集』でジュリー=史実でのダントンの後妻ルイーズ・ジェリーと断言している。しかし私はジュリーはルイーズではないのではないかと思っている。そもそも冒頭のジュリーの容姿描写(波打つ髪、黒い目...)からして、ルイーズの肖像画とは一致しない。(むしろ最初の妻ガブリエル・シャルパンティエに重なるのでは?)

5/12追記:John Hamiltonの論文"I love you like the grave": Rhetoric, Revolution, and Necromancy in Dantons Todによれば、やはりジュリーの造形にはかなりガブリエルが入りこんでいるようだ。それだけにとどまらず、本作のダントン像、さらにビューヒナーが劇の題材にダントンを選択したことにも、ガブリエルと彼女の死を巡るエピソード(=彼女の墓を掘り返して抱きしめたダントン)が強く影響しているという。さらにHamiltonはガブリエルがフィクションのキャラクターとして蘇らせたのはビューヒナーが初めてだとも述べる。 

 

 

今回論じたことからは離れるが、他に印象に残ったフレーズを最後に一つ。公安委員会内部でもロベスピエール一派への反感が育っていることが示される場面で、委員の一人バレールによるセリフ。

九月の大虐殺の人殺しどもが牢獄に闖入してきたとき、ひとりの囚人が自分のナイフを握りしめて人殺しどもの中にまぎれこみ、ひとりの牧師の胸を突き刺した。それでその囚人は救われたのだ! これに文句をつけられる奴はいないだろう? (p. 240)

今回再読して最も考えさせられたセリフだ。

今回読んで引用したのは岩波文庫版である。

bookmeter.com

ちなみにこれを書いている5月6日はロベスピエールの誕生日らしい。本作では美徳やら清貧やら何やらを押し付ける存在として書かれている彼だが、ピーター・マクフィー『ロベスピエール』によれば、史実のロベスピエールは(少なくとも革命のある時期までは)他人に自分の規範を押し付けるような人ではなかったらしい。