Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

『阿寒に果つ』と「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展

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雪に埋もれ眠り、凍りついて死ぬという象徴的なイメージ。

好きな小説なのに、何か書こうとするとどうしても筆が止まってしまい三年くらい放置していた。今ならまとまったことが書けそうなのでキーを叩いている。

 

純子の姉、蘭子が妹に対して抱くのは嫉妬だと語り手は述べるが、純子の死への罪悪感も彼女は抱えていたのではないかと私は思う。恋愛的な意味での「一番の愛」は誰にも抱いていなかったのかもしれないが、純子は何だかんだ姉のことは大切で心を開いていたように思う。純子にとって蘭子は帰る存在であり、安心して眠れる場所だったように思う。駒田から金をもらっていた告白も、姉が彼とすっぱり別れられるようにするためだったのではないか(他者の裏付けがない以上、純子のでっち上げの可能性も十分考えられる)。彼女が死を選んだ直接的きっかけの一つは姉が自分を置いて東京へ行ってしまったことだろう。

「さよなら」

蘭子がもう一度背伸びして手を振った時、見送りのなかから赤いコートの純子が駈け出してきた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、行かないで」

純子が髪をなびかせて追ってくる。

「お姉ちゃん、行ったら死んじまう*1

「行ったら死んじまう」というのはハッタリでも脅しでもなく、切実な叫びだったのではないか。蘭子も気づいてはいたが、それでも妹から離れて自分の道を切り開くことを選んだのではないだろうか(蘭子がこのまま妹と札幌にいれば自分がダメになると危惧するのも当然だと思うし、東京へ出たことは間違った選択ではないだろう)。そして罪悪感を打ち消そうとして、蘭子はあえて冷淡に妹を一種のナルシスト・エゴイストとして結論づけたのではないか。

 

結局純子が何を考えてなぜ死んだのか、正解は示されない。純子と繋がりのあった人々に一通り会ったあと、語り手はいくつかの可能性を示す。

「生きるのに疲れた」「若さに頼っていられない未来を悟り憔悴した」「恋も死も全て計算の上だった」

その上で語り手なりの結論として「純子は自分以外誰も愛していなかった」と導き出す。

六つの面から照らし出せば出すほど、純子という結晶は、ひたすら純粋に、純子一人の純子になっていく*2

正直なところこの結論には腑に落ちない点もある。人物の多面性についてはその通りだと思うが、語り手は「純子という一つの存在がどこかにある」と解釈するきらいがある。私はむしろプルースト失われた時を求めて』でアルベルチーヌの思い出を拾い集めた語り手が思い至る「存在の複数性」の方がしっくりくる。

しかし、なんといっても、アルベルチーヌが、数多くの部分、数多くのアルベルチーヌに、そのように分割されたということこそ、私の内部におけるアルベルチーヌのただ一つ変わらない あり方なのだった。[...] われわれはそれぞれに一人なのではなく、各自には多くの人間がふくまれている。それらの人間はみんながおなじ精神的価値をもっているわけではない*3

近年の歴史学におけるダントン研究*4も似たような結論に至っていたように思う。彼もまたフランス革命の中で、彼ほど各人によるイメージは独り歩きし、実像を掴みづらい人物はいないだろう。そして彼を「一つの実像」に押し込めることは不可能だと私は思う。かつてオーラールとマティエがそれぞれ主張したように、ダントンが「人類を愛した寛大な愛国者」あるいは「革命を裏切った強欲な悪徳政治屋」と決め、全てをそこに収束させることはできない。ジョルジュ・ルフェーヴル以降の歴史家の間でこの認識は浸透しているようだが、文学や芸術、インターネットのフランス革命ファンダムではどちらかの像に彼を押し込めようとする傾向が続いていると思う。

『阿寒に果つ』に戻ろう。「純子は誰のものでもない」というのは、それはその通りだと思うのだが、「一つの純子」が存在するとした上で「純子は自分以外誰も愛していなかった」と結論付けるのは早急ではないか。「一番の愛」でなくとも、彼らにそれぞれ純子は何かしらの思い入れを持っていたように私は思った。それに千田と殿村は「自分が一番純子に愛されていた」とは考えていないように思えるのだが、この結論(あるいはこの小説全体)の目的はあくまで語り手のセルフセラピーで、論理や辻褄は重要ではないのだろう。

一通り読んでみて私なりに解釈すると、純子は自分が駄目になっていることに薄々気づいており(むしろそう思い込み)、諦めとともに死を華麗なるフィナーレとする自己演出を始めたように思う。語り手が捉えているより、未来への恐れや焦り、諦めが大きいのではないか。彼女が姉に漏らした

「あたしはもう駄目かもしれないよ*5

という一言はあまりにも切なく重い。自分が浦部や千田のように平穏に生きていけるとは思えず、また殿村や蘭子、俊一(語り手)には輝ける未来が待つことが彼女には悔しく、自分が置いていかれるように思えてならなかったのではないか。

 

2022年冬に北海道立文学館で開催された「よみがえれ!とこしえの加清純子 ふたたび」展に行った。これもずっと書こう書こうとして書けないでいた感想だ。

『阿寒に果つ』ではあまり拾われなかったが、実在の加清純子は小説やエッセイも執筆しており、これが荒削りながら惹かれる文章だった。『阿寒に果つ』とwikipediaのみの事前知識からは意外だったが、雪像コンクールを題材にした短編小説『偽りの作』や寄せ書きから、純子が高校のクラスに期待を抱いていたことを知った。

『偽りの作』あらすじ:主人公・舜子はクラスが団結するために雪像コンクールで優勝することを目指す。しかし日が経つごとに集まるクラスメートの数は減り、残った生徒も義務感や下心から集まったにすぎない。心身ともに疲弊した舜子は注射を打ってまで雪像作りに奮闘するが、いざ完成すると虚無感しか残らなかった。だが雪像は優勝し、クラス中で分配され一粒しか残らなかった景品のキャラメルを口にした舜子は「これでいいのさ」と満足した。

彼女が高校同人誌に寄せたメッセージには「冷たいクラスだった。私を孤独へと追いやった冷たいクラス。でも今となっては全てを感謝する」(記憶頼みで書いているので多少の差異があるかも)という言葉も添えられていた。棘棘しい言葉だが、裏を返せば彼女はそれだけ自分のクラスに期待し、より良くなるよう尽力していたのではないか。
『阿寒に果つ』を読む限り、純子は高校に何ら関心を持っていないと思っていた。しかしこれらからは芸術に邁進するのみならず、楽しく実のある学生生活を望んだ純子の一面が見えたように感じられた。加えて学級写真あるいは友人たちとの写真を見ると、楽しそうな笑顔の彼女が確かにそこにいた。

『阿寒に果つ』を読んで想像したよりも加清純子はかなり身近な存在だと感じた。私自身も『偽りの作』に類似した、自分が中学・高校時代に「冷たいクラス」と言いたくなるような経験を何度も繰り返した。私の高校時代ははるか昔だが、純子に勇気づけられたような気がした。

また『藝術の毛皮』という純子が書いた小説の筋書きや登場人物がほとんど『阿寒に果つ』と同じであることに驚いた。生前の作品なので阿寒湖は登場しないものの、冒頭は画家の主人公が結核で亡くなる場面から始まる。その主人公はある教師への失恋がきっかけで男性たちを誘惑するようになる。事あるごとに主人公の姉に対する辛辣な意見が述べられ、小説家志望だった姉の恋人を横取りするエピソードもある。純子自身も姉へのコンプレックスが相当強かったのではないだろうか(姉妹なんて皆そんなものだと知人に聞いたことはあるが)。渡辺淳一は『藝術の毛皮』の存在を知っていたのだろうか?『阿寒に果つ』はあくまで渡辺淳一が作り上げた純子の話思っていたが、『藝術の毛皮』を踏まえると『阿寒に果つ』の純子像は実際の加清純子自身が望んだイメージであるようにも思う。

1996年にHBCで放映された「もうひとつの『阿寒に果つ』-氷の自画像を訪ねて」の上映も観たが、一番印象に残っているのは渡辺淳一が「純子は死にたがっていた。ある時「死のうかな」と言われたので「死ねないだろ」と答えたら本当に死んでしまった」と語っていた箇所だ。その表情を見ていたら、純子の死そのものもさることながら、むしろ自殺を煽る(結果となった)言葉を口にしたことで本当に彼女を市に至らしめてしまった経験が彼のトラウマではないかと感じた。もっとも私は渡辺淳一を「不倫の話を書く人」くらいにしか認識しておらず、その性格や価値観は知らない。だから的外れな感想かもしれないが。

他にもあるクラスメートに出会うなり「美しい人がいた!」と興奮し、絵を描いたエピソードも面白かった。(その肖像画も展示あり)『阿寒に果つ』でも蘭子が言及していたが、他者から見て純子は「美しい人」と思われていた(し、写真を見てもそう思う)ものの、彼女自身は自身の容姿に関するコンプレックスを抱えていたのではないか。

『阿寒に果つ』には出てこなかったが、加清純子の弟が暮尾淳という詩人であることも知った。彼の証言で「幼少期に転地療養していたとき、見舞いに来たのは純子だけだった。彼女はそういうところがあった。(要旨)」との箇所が今も心に残っている。

*1:p.390.

*2:p. 406.

*3:井上究一郎訳『逃げ去る女』p. 204.

*4:Danton : Le mythe et l’Histoire, dir. Michel Biard&Hervé Leuvers, Armand Colin, 2016.や Serge Bianchi, Danton, ellipses, 2021.など

*5:p. 389.