Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

リュシル・デムーランの日記 (Journal 1789-1793) とその写し間違いについて(追記: mastodonアカウントの話)

革命家カミーユ・デムーランの妻で、自身もギロチンで刑死したリュシル・デムーラン(デュプレシ)の日記を読んだ。ダントンの最初の妻であるガブリエル・シャルパンティエに関する信頼できる一次資料は親しい友人だったリュシルの日記と手紙しか今のところ存在しなさそうなので。

とりあえず、8月10日事件に関する記述に関して、リュシルやカミーユ、ダントンなど様々な従来の伝記における引用には写し間違いがあることが判明した。そのせいで、その中で描かれるガブリエルの人物像は誤りに基づいて構築されているため、実際の人物像とは異なる可能性が明らかになった。

8月9日にリュシルはダントン宅を訪れたのだが、従来の伝記(例えばミシュレ革命期の女性たち』ルイ・マドラン『ダントン』ジュール・クラルティ『カミーユ・デムーラン』etc. )では、

「ガブリエルは泣き、子どもたちは呆然とし、ダントンは毅然としていた」と書いている。

しかしながら実際の日記は

「夕食のあとダントンの家へ行った。彼の母親は悲しんで泣き、父親は呆然としていた。ダントンは毅然としていた」Après le dîner, nous fûmes tous chez D. [Danton]. Sa mère pleurait, elle était triste, son pere avait l'air hébété D. était resolu. (p. 154)

と、ガブリエルも子どもも出てこない。「彼の母親」Sa mèreと「彼の父親」son pereはどう考えてもダントンの親*1であり、妻ではないだろう。

また従来の伝記では、ガブリエルは大砲の音に怯え気絶し、リュシルが介抱したことになっている。だが実際に気絶したとリュシルが書いているのは、ジャーナリストで革命家のロベールと結婚していたルイーズ・ケラリオである。(その時、ガブリエルとリュシルは一緒にいなかったようだ)

だから上述のような誤った引用を根拠とする「ガブリエルは夫が引き起こした革命の流血への恐怖におののき、心をすり減らして死んだ」という従来の主張は眉唾ものである。少なくとも8月10日事件においてガブリエルはそれほど恐怖におびえてはおらず、むしろ平静を保っている(リュシルはケラリオが「こんな時にダントン夫人 [ガブリエル] があんなに落ち着いているなんて、私には耐えられない!」と騒いだことを記している。)

ガブリエルに関する言説はほとんど根拠がないと私は前々から疑い、「ダントンの最初の妻神話」解体として資料を集めているのだが、リュシルの日記は重要な史料だろう。

話がガブリエル中心になってしまったが、リュシル自身も「夫の言う事に盲目的に従うだけ」「良妻賢母」という偏見で語られがちな人物である。私も以前はそう思っていたが、日記を読むと革命の中で生きる彼女の姿がより身近に、まるで私自身の友達のように感じられた。彼女は明るく、軽薄なところはあったかもしれない。だが日記を読む限り、少なくとも盲目的でも愚かでもない。

もっとも今となっては、ガブリエルやリュシルの実際の人物像を友人のように把握することは難しい。また歴史創作をする上では、どこかで創作・フィクション・あるいは嘘も取り入れなければならない。とはいえ、創作においては結果的にかけ離れていたとしても、彼女たちが実際のところどんな人だったのかは知りたいと思っている。

追記

twitterが色々怪しい噂が立っているので代替になりそうな各種SNSを試しました。字数制限や公開範囲設定などが一番ちょうどよいmastodonのFedibirdにいます。当面は旧twitterけれど、妄想や考察など長文で考えたいことはこっちに投稿するつもりです。

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招待リンクを貼っておくので、興味がある方はご自由に使ってください。誰が使ったかなどはわからないはず。私をフォローする設定にもなっていないはずです。

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*1:ただし、この両親がダントンの実の母と継父(実父は幼少期に死別)なのか、ガブリエルの両親シャルパンティエ夫妻のことかは判断できない。とはいえ田舎(アルシ=シュル=オーブ)在住の両親を危険なことが分かっているパリにわざわざ連れてくるとは思えないので、後者だろう。