Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

歴史には善人も悪人もいない『ロスト・キング 500年越しの運命』

映画の『ロスト・キング 500年越しの運命』を見た。

歴史好き、特に

・毀誉褒貶が激しい人物が好き/興味がある

・史料が少なく、どんな人だったのかよくわからない人物が好き/興味がある

・歴史創作好き

におすすめしたい。

この世にはいい人も悪い人もいない

この映画のテーマは「不当に蔑まれた(ている)人物の再評価」だが、同時に「実際の人物像を超えた過剰な美化」にも警鐘を鳴らす。

「歴史は勝者が書き換える」というフレーズは正しいかもしれないが、チューダー朝寄りの主流派のみならず、リチャーディアンもまた陰謀論紙一重の極端な称賛に足を突っ込んでいる。

彼らの極論に疑問を呈すのは、それほど歴史に関心のないフィリッパの元夫ジョンだ。

「なぜ皆誰かを神聖化するか極悪人にしたがるのか?良い人も悪い人もおらず、ほとんどの人間はその中間なのに。マザーテレサもミルクの蓋を締め忘れたことがあっただろうし、チンギス・ハーンがゴミ拾いしたこともあっただろう」(うろ覚え)

という彼のセリフが一番心に残った。

他の歴史人物と同様、リチャード3世を(2010年代の)善悪という観点から裁くのははっきり言って無意味だ。(そもそも、そんなことは不可能である。)フィリッパに甥を殺したのかどうか尋ねられた(想像の)王が無言で去っていく場面も、その問いを観客に提示した。主人公はこの王を完全無欠な名君だと理想化していたが、甥の殺害が彼の指示によるものかはさておき、中世の国王という立場にいた実際のリチャード3世は、一切汚いことをせず世を渡っていくことはできなかっただろう。

結局のところ善悪は判断する者の価値観や好み、あるいはその時代・地域・環境に大きく左右される。ラディカルな共和主義者や社会主義者アナキストなら「人は罪なくしては王たりえないのだから、王であるだけでリチャードは罪人だ*1」と言うかもしれない。

歴史人物を好きになることは楽しいことだし、好き嫌いには各々の主観が入るのは当たり前だ。しかしながら完璧な聖人も完全なる悪人も存在しないのだから、歴史として考える上では善悪という尺度に基づいて極端な見方に傾くべきではない。

歴史人物のルッキズム

主流派もフィリッパも、リチャードの評価において容姿をあまりに重視していたことが気になった。主人公は「彼の背骨は曲がっていなかったかもしれない」「彼はハンサムだ」と主張する。ジョンに「チューダー朝が歪めた肖像画」と「本来の肖像画」を見せ違いを力説する場面があるが、正直なところ私には違いが全く分からなかった。あとでネットで確認したが、それでもあまり変わらないと思う。(もっともジョンもそう感じており、それが上述の「いい人も悪い人もいない」という発言につながったのかもしれない。)また主流派の歴史家たちも、「彼は背骨が曲がった醜い暴君だ」と主張する。彼の容姿ばかりが取り沙汰されているので、「不細工だが魅力的な人間は存在しないとイギリスの人々は思っているのか?」と腹が立ったほどだ。

だからこそ背骨の曲がった遺骨を見つけたフィリッパが「それでも彼は完璧だ」「背骨が歪んでたら性格も歪むというのか」と言うようになった意義が大きい。

史実と歴史創作の関係

歴史創作・歴史モノの功罪も大きなテーマである。

フィリッパがリチャード3世を愛すようになったきっかけはシェイクスピアの戯曲だ。作中の3世が「コンプレックス故に心が歪み悪事を重ねる人物」として描かれていることに彼女は疑問を持ち、歴史にのめり込んでゆく。

しかしながら、いくら偉大な劇作家とはいえ、シェイクスピアの史劇は言ってしまえば単なる歴史創作である。その主人公も「シェイクスピアが創作したリチャード3世」に過ぎない。にもかかわらず歴史研究家の間で、(アカデミアの研究者も含め)「シェイクスピアがそう書いているのだから、彼はコンプレックスに満ちた極悪人だ」あるいは「シェイクスピアが彼を不当に歪めた」という主張を交わすのが不思議だった。彼らは現実の歴史とフィクションの区別がついていないのだろうか?私は文学研究をかじっているが、むしろ文学の領域の方が、「フィクションの登場人物」「モデルとなった現実の人物」「実際の作者」「周囲や後世に作られた(あるいは自己演出による)作者のイメージ」を意識して区別しているのではないかと思った。

だから、リチャード3世の再埋葬式で俳優を見つけたフィリッパが、その演技を褒める場面は、「歴史は歴史、フィクションはフィクション。史実とは区別しなければならないが、一概に否定すべきではない」というバランスの取れた見方に落ち着いていてよかったと思う。

===

本作は従来不当に貶められたリチャード3世という人物の再評価の過程を題材としているが、彼への極端な美化・称賛に傾くことを回避し、歴史人物について考え・愛するという行為を公平な見方で描いた良作だと思った。

 

ここからは私の大好きなフランス革命に関連付けた話です。長いので分けました。

フランス革命も似ている

中世イギリス史は全然詳しくないのだが、フランス革命を巡る状況にも非常に近いものがあると思う。

リチャード3世に近いのはロベスピエールだろうと思った。彼はかつて「血に飢えた冷血独裁者」というイメージが定着していたが、20世紀以降は彼の「残酷神話」を解体した上で、革命を実現した清廉な政治家として称賛する動きが始まった。だがロベスピエールを称賛する意見もまた過激化した*2ため、現在ではよりバランスの取れた見方がなされるようになった。例えばピーター・マクフィーによる伝記の帯には「恐怖政治によって革命を破滅に追い込んだ独裁者でもなく、共和国の徳を謳いあげた「清廉の人」でもなく―等身大のロベスピエールへ」と書かれている。

だから彼が「残酷な狂人」ではないことは周知されており、その上で彼をどう評価すべきか議論されている...というのが現状だと私は思っていた。だが数週間前に旧twitterで盛り上がっていた話題では、ロベスピエールが流血を好む独裁者のように言われていたので驚いた。まだこのイメージは生きていたのかと。

反・ロベスピエール論者がよく引き合いに出すのは長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』におけるロベスピエールだが、彼らは本当にこの作品を読んだのか疑いたくなる。当然フィクションであることは念頭に置いた上で、この漫画のロベスピエールは常に自分のやっていることは正当なのか悩み続けている人物として描かれている。彼は友達思いの人物だが、友達の方が彼に「革命」を押し付けて逃げ場を奪ってゆく。彼はクーデターで処刑されるが、最後の回想でも「私が目指したのはルイ16世と処刑人サンソン、自分が同じテーブルでコーヒーを飲み語り合える世界だ」と振り返る*3。本作のロベスピエールは貶められておらず、革命の行き過ぎを描きつつも彼らが目指した理想も隠すことなく描かれていると思う。

彼に限らず、この漫画はどんな人にも良いところと悪い/愚かなところがあり、だからこそ人間は愛すべき存在だと描いており、ほぼ全ての登場人物に敬意を払っていると思う。私はロベスピエールの大ファンというわけではないが、それでもロクに読んでもいないのに、面白おかしい場面だけ切り取って彼が貶められているのを見るのは腹立たしい。

一方、容姿が取り沙汰される場面でも、やはりロベスピエールのことを思い出した。2013年、彼のものだとされるデスマスクをもとに、専門家が彼の顔を復元した。

www.afpbb.com

「これそんなに悪い顔か?」と思った。肌の状態は悪いが、18世紀末なんて今とは比べ物にならないほど衛生状態は悪く、有効な(特に男性の)スキンケア方法もほぼ存在しなかっただろう。またそれは皆同じだったので、当時の人々はそれほど気にしなかったのではないか。「目つきが悪い」「陰湿な目」とは思わないし、そもそもデスマスク*4というものはおしなべて生前に比べ美しいとは言えない。これが仮に本物のデスマスクから復元された像だとしても、動いてしゃべれば案外従来の柔和なイメージ通りではないかと思っている。

なぜ歴史人物とルッキズムの問題に私がここまでこだわりを持つかというと、私はロベスピエールよりもむしろダントンの方に興味を持っているからである。そしてダントンはその容姿が不細工だということで有名だ。彼の伝記や歴史書では、「不快な」「ぞっとするような」「嫌悪感を催さずにはいられない」等々、容姿に関する悪口のオンパレード。おかげで英語とフランス語のその関連の語彙が強化されたほどだ。実際に会ったことはないので判断はできないが、いくら個性的な容姿だからとはいえ殊更醜さを強調するのは良いことではないと私は思う。それに政治の絡まないプライベートの知り合いは、概ね彼に好意的である。「不細工だったとしても、魅力的な人はいる」と私が言うのはそういう理由である。

 

私が一番好きで、フィリッパ画リチャード3世に注いだような関心を持っているのはそのダントンの妻、ガブリエル・シャルパンティエ*5である。私が彼女のことを知り、深い興味を持つようになったのは、『ナポレオン 獅子の時代』4巻でダントンが彼女の遺体を掘り起こす場面がきっかけだ。なぜか私はその場面に強く惹かれ、「この人は生前どんな人だったのだろうか」と思った。その後は調べていくうちに、恋といって良いほど惹かれて今に至る。

だが彼女が実際の人物像がはっきりとわかる同時代の史料はそれほど残っていない。ミシュレや彼の意見をそのまま採用した歴史家たちは、彼女は「王党派で敬虔なカトリックで、革命の流血におびえていた。夫が革命に深入りしていくのを止めようとしていた。」と書いている。

しかしながら、同時代の資料である夫が彼女に宛てた資料、あるいは彼女と親しい友人だったリュシル・デムーランの日記を読むと、ガブリエルが上述のような人物であるとは必ずしも思えない。

ガブリエルはリチャード3世のように歴史上大きな役割を果たした人物ではない。だから彼女に興味を持っているのはこの世で私一人のみかもしれない。歴史的意義というものもあまりないのかもしれない。それでも良い。私は彼女が好きだ。私は歴史創作もするが、創作上の彼女は実際とはかけ離れた人物になるかもしれない。それでも、もっと知りたいと思う。

*1:元ネタはフランス革命期、1793年の元・ルイ16世裁判におけるサン=ジュストの演説。

*2:ロベスピエール再評価の旗手だった20世紀前半の歴史家アルベール・マティエはロベスピエールを称賛するあまり、それまで称賛されていたダントンに対しかなり辛辣な目線を注ぐ。しかしながらマティエのダントン低評価は行き過ぎた側面もあり、後の歴史家からは彼に不利な史料(彼のことが嫌いな人や政敵の証言など)を必要以上に意味づけていると批判がなされた。(前川貞次郎 (1960)「ダントン研究史の問題:フランス革命学史の一章」また前川は、マティエのダントン嫌いはロベスピエールを引き立てるという目的に加え、歴史家自身の人間関係に影響された個人的好き嫌いの要素が大きいのではないかと述べている。

*3:雑誌連載時は「私たちが渇望しても手に入らなかった自由と平等を当たり前に持つ世界がやってくるが、後世の人間は私たちの苦しみを理解できるのだろうか。自分たちは無意味な殺し合いをしたと思うだろうか。」というモノローグが掲載されていた。単行本のセリフのみでロベスピエールが単なる暴君ではないことはわかるので、2ページも回想がつづくと正直なところくどいので逆効果だと思っていた。だがフランス革命を「単なる内ゲバ」と考える人々があまりに多いことを考えると、単行本でも省略されるべきではなかったのかもしれない。

*4:そもそも、この像の元になったデスマスクが本当に彼のものなのか、信憑性の問題も残っている。

*5:彼女もデスマスクをもとにした胸像が残っている。彼女が死後一週間たって掘り起こされたのは事実だが、どういう経緯で制作に至ったのか正確なところははっきりしない。