Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

『野球どアホウ未亡人』"野球"の快楽に堕ちてゆけ(ネタバレあり)

※大いにネタバレしています。

先日、刈谷日劇で『野球どアホウ未亡人』を観た。

youtu.be

この映画を知ったきっかけはfilmarksの「近日公開映画一覧」だった。妙にインパクトのあるポスターとタイトルに目が釘付けになった。

なんてったって「野球」で「どアホウ」で「未亡人」である。「どアホウ」なんて言葉、人生で使ったことあるか?「未亡人」なんて言葉、最後にいつ聞いた?それが「野球」と組み合わされている。冗談と野球が好きな者として、観るしかないと思った。

刈谷日劇は意外と近かった

もっとバカ笑い系のコメディかと思ったら、予想以上にシリアスで芸術性が高い(ように思えた)。

ポスターから想像されるような昭和映画の香り漂うタイポグラフィや演出、画面構成が目につく。だが監督との特訓を性的に揶揄される主人公、再会した最愛のはずの夫をあっさり捨てる、義妹の春代とのある種のシスターフッドなど、昨今のフェミニズム的映画トレンドも押さえている。

...という指摘が全く意味をなさないほど、本作の面白さは別のところにある。「野球」(我々の知るそれとは別物ではないだろうか?)に取り憑かれた登場人物たちの狂気同然の熱情。バカバカしいはずなのについ真剣に見入ってしまった。

冒頭で開陳される重野の野球論には、私が反吐が出るほど嫌いなマラルメデリダ、あるいは関連する日本の思想家どもの文章を思い出して苦笑いした。これだけでつかみはOK。

そもそもこの映画は7名しか出演していない。野球って9人×2チーム=18人いなくてもできるんだ!と涙が出てしまった。まともにベースが映るのも、最後のホームランしかなくないか?

夫を捨てる場面で夏子が吐く「兄妹そろってつまんねえことほざきやがって。私こそ野球だ」(うろ覚え)だなんて、冷えた頭で考えれば全く意味がわからない。だが私はこの場面で感動を覚えた。

それまで「玉砕カミソリボール」なるピッチングの特訓をし、ピッチャーとして頭角を現してきたはずの夏子なのに、最後はなんとバッティングで重野に挑むことになる。彼女がバットを握るシーンなんて全くなかったのに。

「パイリーグ・ボール」が彼女の胸を直撃するが、それでも夏子は「いい球だ」と不敵に笑う。2球目。夏子の放った打球は重野を直撃して爆発する。映画における爆発とはそれだけで正義である。

「義姉さんはホームランボールになったんよ」春ちゃんのセリフにカタルシスを覚えた。実際はグランドをそれなりの速さで走っているだけ、とは言ってはいけない

「その後夏子は大リーグへ行き、アメリカに彼女の銅像が立つ予定である」とキャプションが入って終わる。夢は大きく、目標は高く。これくらいの大団円でなければロマンに意味はない。

野球好きは人生で一度は見るべきだと思う。我々の知る野球とは違っても、そこには「野球の快楽」が我々を待ち受けている。特に東海圏のみなさんは今すぐ刈谷日劇へ向かうべし。

ちなみに制作陣は野球を全く知らないと聞いたが、本当なのだろうか?

野球ものの作品を作るためには、ルールを熟知し、NPBのみならず高校・大学・社会人野球、MLBKBOCPBLキューバリーグ等々すべての野球を見、実技経験もなければいけないと私は思っていた。それは意味のないギプスにすぎなかったのだ。私は現在、フランス革命を舞台にした野球物語を書こうとしているのだが、実技経験もなければパ・リーグしか見ておらず、しかも18世紀末に野球はまだ原型しか存在せず、さらにフランスの野球人気は現在でもゼロに近い、など現実の厳しさに恐れおののいていた。

勇気が湧いてきた。私こそ野球だ。

『野球どアホウ未亡人』に限らない、野球もの全般に関する思いついた疑問

(女子野球以外で)女性野球選手が出てくるときは9割くらいピッチャーだと思うのだが、女性バッターはいないのだろうか?フィクションなのだから、どのポジションだって良いはずなのだが。だから私が今書いているフランス革命野球物語の女性主人公 (実在の人物) はホームランアーチストの内野手である。

そして創作における投球フォームって、なぜどれもこれもワインドアップなのだろうか?ワインドアップ、実際の野球ではここのところあまり見ていない気がする。