Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

ガブリエル・ダントンを掘り起こしたのは誰か?

ジョルジュ・ダントンの妻であるガブリエル・ダントン(旧姓シャルパンティエ)が有名になったのは、死後一週間後に遺体が墓から掘り起こされ、その時に取られたデスマスクをもとにした胸像が制作されたからである。おかげで彼女の人物像は誰も知らないのに、彼女が死んだことや死んだときの顔はよく知られているという奇妙な状況が生まれた。

これが問題の胸像。石膏製だが、ブロンズ製バージョンも残されている。

1793年8月10日に開催されたサロンの目録にも「死後一週間後に掘り起こされ型どられたCitoyenne Dantonの胸像」が載っているので、彼女の遺体が掘り起こされたことは事実だと考えて良いだろう。

通説では、

「自らの出張時に妻を亡くしたダントンは、悲しみのあまり狂乱した。彼は大量の札束を渡し、彫刻家のデセーヌとともに墓地へ急いだ。彼は棺を掘り起こし、蓋を投げ捨てると妻の遺体を抱きしめた。何度も接吻し、生前の不貞や家庭を顧みなかったことを詫びた。彫刻家は死んだ女性の顔の型を取り、胸像を制作したのだった。」

というストーリーが語られている。彼が死体を掘り返す様子は、ジョセフ・シルヴェストルの絵画ダニエル・ヴィエルジュによるミシュレ『フランス革命史』の挿絵に描かれている。

だがガブリエルの胸像は、本当に夫の願いによって作られたのだろうか?私はジョルジュの依頼によるものだという同時代の史料に出会ったことがない。ここでは、この作品の制作をめぐる様々な可能性を、資料を紹介しながら考えたい。

失われた身体を求めて―ジョルジュのあまりに深い悲しみ

妻を深く愛していたジョルジュがその死に打ちのめされたのは事実だと考えられる。ガブリエルの弟ヴィクトル・シャルパンティエは、恋人で画家のコンスタンスに、彼が出張先から帰宅した際の様子を以下のように書いている。

ジョルジュが到着した。彼は大好きなガブリエルのことを尋ねた。彼女が死んでいるのが見つかったシーツに彼は口づけた*1。彼は君[コンスタンス]が書いた彼女のデッサンを眺めることにしか喜びを感じない。彼はガブリエルの顔立ちを探し求めていて、君のデッサンに見つけたんだ。僕は話しかけたけど、返事はなかった。*2

と記し、恋人に姉の絵をさらに描くよう求めている。この文面からは、ガブリエルが死んだ時に横たわっていたシーツに接吻する、あるいは彼女の輪郭を求めるなど、ダントンの行動がかなり身体的なアプローチに立ったものであることがうかがえる。*3

ダントンの同僚の革命家ラクロワが3月に書いた、早くベルギーでの任務に戻るよう求める手紙の文面からも、彼の悲しみと苦しみが深かったことは事実のようだ。

この度の不幸は知っている。取り返しがつかないことだとは分かっているが、だが結局のところ君は父親*4であり、子どもたちと共和国に対して責任がある。パリを離れて、身辺のことは義兄弟*5に任せてブリュッセルにおいで。苦しみをやわらげ涙を拭ってくれる友だちがいるよ。*6

archive.org

他にも有名なロベスピエールの「死ぬまで君を愛すだろう」の手紙や、リュシル・デムーランが1793年2月16日に母に対して書いた手紙の「ダントンに関するニュースがあったら教えてほしい」という一節など、彼の喪失の深刻さを示す史料は十分に存在する。

しかしながら、彼がデセーヌに彫像の作成を依頼したという証拠はない。「ちょうど彼が帰ってきたのが一週間後である」「彼は非常に悲しみ、彼女の身体の痕跡を求めた」「家族の手によって一度埋葬されていたのに、掘り起こされた」という状況証拠から、ダントンが依頼したものと考えられてきたのだろう。一番このことを望みそうな人物であることは間違いなく、頑健なことで知られた彼が自らの手で墓を暴き、絵画のように死体を抱きしめた可能性も十分考えられる。ただ、明確な証拠がないことは記しておきたい。

あるいは、ガブリエルの実家シャルパンティエ家の意向が絡んでいたかもしれない。コンスタンスとヴィクトルの結婚の他にも、彼らの兄のアントワーヌ・フランソワは画家ユーグ・タラヴァルの未亡人と結婚した。三兄弟の叔父の一人はパステル画家であり、この一家は美術界との関係が深かった。彼らもジョルジュ同様にガブリエルの死を深く悲しんだため、この作品の制作過程に深く関わっているかもしれない*7。もっとも、それならばなぜ一度埋葬したのかという疑問は残るが...

ちなみに、通説の「ダントンは妻の死体に不貞を詫びた」という部分も非常に怪しい。彼が浮気していた証拠はほぼ存在しないからだ。ダントンの熱烈な支持者である彼らには明らかな贔屓が認められるとはいえ、ジャン=フランソワ・ロビネ*8ヒレア・ベロック*9は「ダントンが不倫していた証拠は一切見当たらず、彼の愛人だったと考えられる女性もいない」と主張する。彼が家庭を顧みなかったという主張にもあまり根拠はなく、彼女の死の2か月前に書いた手紙からは、彼が妻や家庭を深く気にかけている様子がうかがえる。

彫刻家デセーヌ―困惑した聴覚障害者か、熱狂的な革命支持者か?―あるいは、フランス革命デスマスク

胸像の作者クロード・アンドレ・デセーヌは聴覚障害を持っていたが、優れた彫刻家として知られている。熱烈な革命派だった彼は政界と積極的に関係を結ぼうとしたようだ。革命派の芸術家として彼が名声を得るきっかけは、ミラボーの死後すぐに制作した胸像(1791)だった。彼を顕彰する作品のコンペが行われたが、デセーヌはミラボーデスマスクを取り、それをもとに制作した作品で優勝した。この胸像は「聴覚障害者のデセーヌはミラボーの演説を聞いたことはないはずだが、彼の話を聞いても理解できなかった健常者よりもミラボーをよく表現している」と賞賛された。

commons.wikimedia.org

rodama1789.blogspot.com

デセーヌの経歴、特にミラボーの胸像に関して詳細が掲載されているブログ記事(英語)

ペティオンやロベスピエール、元国王の死刑に賛成票を投じたため王党派に殺害されたルペルティエ=サン=ファルジョーなど、デセーヌは革命家たちの彫刻を作り続けた。ゆえに彼が芸術的/政治的野心に突き動かされ、積極的にガブリエルの死体から型を取り、胸像を作ったことも十分考えられる。ガブリエルの死から数カ月後にはジャン=ポール・マラーが殺害されたが、彼のデスマスクから作成された胸像もやはりデセーヌが制作した(と推定されている)。ミラボーやガブリエル・シャルパンティエの胸像制作経験が、彼に新たな仕事をもたらしたのだろう。

www.amis-robespierre.org

ロベスピエール友の会のページ(フランス語)、中盤にマラーのデスマスクが掲載

マラーといえば、ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描くにあたり死体をモデルにしたことが有名である。デセーヌのミラボー像の制作過程が問題視されず、むしろ称賛の対象となったことも合わせて考えれば、死体を利用して作品を制作することは「自然の正確な表現」とみなされたのではないだろうか。このあたりは美術史的観点からの検討が必要だが、いかんせん私は美術史に関して全くの素人なので何を調べれば良いのか全くわからない。

無論ガブリエルの場合、彫刻家が勝手に墓を掘り返したわけではなく、少なくとも夫や家族の許可は取っていただろう。だが「ダントンが大金を積み、困惑する芸術家を墓地へ引っ張っていった」という通説には疑問の余地がある。既にデスマスクをもとにした作品で名声を得ていたデセーヌが、積極的に死体から型を取り胸像を制作した可能性も考えられる。少なくとも、デセーヌが選ばれた理由は彼が聴覚障害者だった(ので墓を暴いたことを周囲に暴露するおそれがない)からというより、むしろデスマスクをもとにした彫像で評判を得ていたからだろう。現に、見世物小屋ではなくサロンという厳粛な場で制作の経緯は公表されている。デセーヌにとっても、この作品の制作は名声に箔をつけることになったのではないだろうか。

悪名高いスキャンダル?革命の殉教者?

こうして出来上がったガブリエルの胸像はスキャンダルを巻き起こしたと言われているが、これも疑わしい。具体的なスキャンダルの状況に関する資料は見つからない。それどころか当時の状況を考えれば、むしろこの作品は「革命の敵たちによる誹謗中傷で命を落とした殉教者の像」として好意的に受け止められた可能性も考えられる。

彼女の死が「反革命による犠牲者」として扱われた例として、3月3日にはジャコバン・クラブでコロー・デルボワは以下のように追悼演説を行った。

ジロンド派が、私達全員がその死を惜しんで悲しむ一人の市民を殺した。それにふさわしい彼女に涙を捧げよう。市民ダントンの寛大な妻に![...] 彼女は新聞で夫の悪口を読み、衝撃を受けて死んだ。この女性がどれだけダントンを愛していたか知る者は、その苦しみを想像できるだろう」

books.google.co.jp

コローはガブリエルをジロンド派に殺された*10革命の殉教者のように語っている。そのため、彼女の胸像もそのように扱われた可能性もあるだろう。1月にはルペルティエが、7月にはマラーが山岳派の反対者に殺された。彼女は二人ほど目立たないものの、やはり革命のために死んだ人として丁重に扱われたのではないか。

このことを踏まえれば、ガブリエルの彫像制作にはダントン以外の政治家が介入した可能性も考えられる。政治家たちがデセーヌにガブリエルのモニュメント作成を持ちかけ、彼女の墓を暴かせたのかもしれない。仮に制作を依頼したのが彼女の夫だとしても、それはあくまで自分が眺めるためだったのではないか。彼は愛するガブリエルを自分だけのものにしておきたかっただろう。この作品がサロンで公開されることになったのは、彫刻家の野心に加え政界の意向も絡んでいたのではないだろうか。1793年の情勢を踏まえれば、「革命の女性殉教者像」には需要があっただろう。

 

まとめサイトのような記事になってしまったが、イメージが先行し再考されることのないこの作品について、私が知っている資料をまとめた。もちろんこれも私の推測に過ぎず、思い入れが度を越していることも認める。だがガブリエル・ダントンに関する日本語の情報がほぼゼロなので、これからもボチボチ書いていこうと思う。

余談(長谷川哲也『ナポレオン』の話)

長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』では、時系列が変更されマラーの死がガブリエルの死より先行している。単行本2巻で『マラーの死』制作現場を見学しに来たダントンは、腐ってウジの湧いたマラーの死体を明らかに気持ち悪がっている。にもかかわらず、4巻では同じく腐敗したガブリエルの死体を、状態は全く気もとめずにダントンが強く抱きしめ、接吻する様子が描かれている。笑いどころだったのだろうか?しかもガブリエルの死体の下半身のラインが妙に肉感的なため、ネクロフィリアという言葉すら想起してしまう。それが私の性の目覚めでした、とは言わないが朴訥な一中学生にとってはあまりに強烈な印象を残したのだった。

*1:原文のbaiserには英語でいうfuckの意味もあるが、婚約者に当てた手紙ということを考えると少なくともヴィクトルは性行動を意図して書いたわけではないだろう。ジョルジュがそういうことをした可能性は否定できないが。

*2:Gildas Dacre-Wright (2017), Constance Charpentier: paintre(1767-1849), p. 31.

*3:もっともヴィクトルは姉の死に乗じてコンスタンスに求婚したため、義兄の悲しみを誇張して書いた可能性もあるのだが。

*4:話はそれるが、「あなたは結局のところ父親である」とラクロワが書いていることも興味深い。彼は自分の子どものことも忘れてしまうほど茫然自失だったのだろうか?もっといえば、ガブリエルについて「夫を深く愛していたことは知られていた」とは言われている。だが2人の子どもがいたにもかかわらず、彼女が「すばらしい母親だった」と言われている(当時の)史料は見当たらない。ルソーの影響で母性が重視された時代にも関わらず。これが何を意味するかは断定できない。だが「神聖なる母親像」「母親は母親らしくしろ」という規範(クレール・ラコンブのようなフェミニズム先駆者でさえ、「女の本性は母性であり、母親は母親らしく子どもを教育すべきだ」と性別役割的とも思えるような考えを持っていた。)にガブリエルが息苦しさや抵抗を覚えていた可能性もあるのではないかと個人的に思う。

*5:ガブリエルには弟ヴィクトルの他に兄のアントワーヌ・フランソワもいる。原文は単数だが、ラクロワがどちらを念頭においているかは不明。

*6:Louis Madelin, Danton, p. 218.

*7:ちなみにダントンの死後、この胸像(石膏バージョン)はヴィクトルとコンスタンスが持っていた。ガブリエルとジョルジュの息子たちの手に渡ったのはヴィクトルの死後しばらく経ってのことだった。(Edmond Campagnac (1947), "Les fils de Danton", p. 48.)

*8:pp. 37-38.

*9:p. 56.

*10:なお、コローが言うようにガブリエルが誹謗中傷に苦しんで死んだという証拠はない。彼女の死因に関する問題については稿を改めて書くことにする。