Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

ジョルジュ・ダントンから妻ガブリエル宛の手紙(1792年12月17日)―和訳と考察

今年(2023年)3月にオークションにかけられた、革命家ダントンから妻ガブリエル・シャルパンティエ宛ての手紙を日本語訳した。同じオークションに出品されたロベスピエールが妻を亡くしたダントンに宛てた手紙はやたらと注目されたのに、亡くなったガブリエルを誰も気にかけないのがあまりに悲しかったので。

原文はオークション開催元(?)のサイトで公開されているものを参照し、適宜英訳版も参考にした。原文の注は読みやすさを優先して編集しつつ本文に[]で挿入し、訳者による注はブログの脚注コマンドを使用した。

手紙なのでかなり意訳したが、原文の意味を捻じ曲げないようには心がけた。18世紀の文章に関しては素人なので、誤訳や訳者の思い違いと思われる箇所があれば教えてください。言葉遣いなどあなたのダントン像と解釈違いを起こしていたらごめんなさい。

drouot.com

===ここから===

1792年12月17日

君の手紙を持ってきてくれた使いがすぐ出発してしまうから、君の近況を受け取ってどれだけ嬉しかったか伝える時間がちょっとしかない。木をアルシ [彼の故郷アルシ=シュル=オーブにある彼の家] に送るのをちゃんと見てて、それから君のお父さんに、温室がある家に俺が泊まれるように手配しろと忘れずに催促しといてね。それからかわいい小ダントン [息子のアントワーヌ, 1790年生まれ] にもよろしく。「君のパパはダダ*1からすぐ帰ってこられるよう頑張るよ」と伝えておいてくれ。

二通目の手紙も今受け取ったところだが、君に頼みたかったことはもうやってくれたみたいだね。

それから友達のブリュヌ [ナポレオンの元帥になるギヨーム・ブリュヌ。コルドリエ・クラブの会員で、ダントンと親しかった] は話を盛ってるなぁ、俺が任務で2ヶ月も拘束されるって信じさせようとするなんて。一日か二日アルシで過ごしたあと、1月1日には君をたくさん抱きしめられるはず。

あのリヴァロル [王党派のジャーナリスト・作家] とか言う奴がラポルト [王党派の政治家] との会話の中で、俺のことを会食でもすれば打ち負かせる奴のように扱っている新聞を読んだ。こんなバカバカしいことを気に病むほど君は弱いの?俺があんな連中とあえて会食するのは国により良く尽くすためで、すっかり対等だと奴らに信じさせるために俺が骨を折ったって知ってるでしょ。それにどんな難癖をつけられたとしても、君は他の誰よりも賢くいなきゃダメだよ。これまでの人生と、主だった自由の敵どもに向けて始めた戦いのおかげで、どれだけ俺が敵意に溢れた連中が誤解するような立場に置かれてきたのかも分かってるだろ?

俺は君のものだよずっと...

「デュムーリエ軍団」にいつも手紙を書いてね。

ブリュヌのコートはちょうど買った時に届いた。

お父さんと、友達みんなにもよろしくね。

===ここまで===

以下は裏付けのない単なる感想と考察(むしろ妄想?)です。興味のある方はどうぞ。

感想・考察

ジョルジュはガブリエルのことが好きで好きでたまらないことがよく伝わってきた。「君の近況を受け取ってどれだけ嬉しかったか」あるいは「すぐ帰って君を抱きしめるよ」など、言葉の端々から愛が伝わる。「どんな難癖をつけられたとしても、君は他の誰よりも賢くなきゃダメだよ。」の一節も、一般的なデマや中傷の問題を超えて彼女に自身を信じて愛してほしかったのだと感じる。

極め付きは「俺はずっと君のものだ」という結語。決まり文句の一種かもしれないが、それでも自身に対する中傷への弁明の直後だから、より彼女への愛を感じとることができる。同時にガブリエルの人生は2ヶ月もしないうちに終わり、ジョルジュの人生もあと1年と少ししか残されていないことに愕然とする。ここまで愛してやまなかったのだから、彼女が死んでしまったこと(しかも不在時に!)はあまりの打撃だったのだろう。一週間経っているのに墓を掘り返してデスマスクを取る*2という狂気じみたほど悲痛な行為に及んだのだ。「彼の魂も一緒に墓へ行ってしまった」と書いた人がいる*3のも頷ける。文字通りTout à toi pour la vie... だった。

通説として「ダントンは書くことが苦手で手紙はほとんど残っていない」言われており、ディスレクシアだったと主張する説すらあるが、この手紙を見ると「本当に書くことが嫌いだったんだろうか?」と思う。これは私の勘にすぎないが、彼は人並みに手紙は残したものの死後の混乱で散逸したか遺族や関係者がおおかた処分したのではないかと睨んでいる。ダントンの息子たちは研究者の求めに応じて彼の財産に関する覚え書きを提供した際、同時に論争に巻き込まれたくないので公開しないよう要請している*4。またダントンの後妻ルイーズ・セバスティエンヌ・ジェリーは再婚後に前の結婚について語りたがらなかったというが、それも結婚生活が苦痛だったからというより、やはり政治論争に関与したくなかったからではないだろうか*5

一方ガブリエルの人物像を考える上でもこの手紙は貴重な史料である。ガブリエルがどんな人物だったのかを示す当時の証言や史料は少ない。ダントンの伝記では彼女に関して色々な性格付けがされているが、根拠に乏しい主張も多いようだ。本当は彼女自身が書いた手紙が残っていたら、なお良いのだが。

ミシュレ黒田礼二はガブリエルが王党派だと書いている*6。だがこの手紙におけるリヴァロルに関するジョルジュの書きぶりから、ガブリエルはむしろ反革命派や王党派に対し反感を抱いていたように思える。彼女がどの程度革命に賛同していたかは定かではないが、少なくとも夫がリヴァロルのような敵対勢力と交際があることを良く思っていないのは確かだ。もっとも先立つ手紙で彼女が具体的に何を書いたのかは不明である。「こう書かれて悔しくないのか」という激励、「本当は王党派に寝返る気じゃないのか」という疑惑、あるいは家計の動きを不審がった彼女は汚職に感づき、倫理面で夫を非難した可能性もある。「自分が敵対勢力と会食したのは国のために寝業をした」「自由の敵との戦いに人生を捧げてきた」などのジョルジュの弁明からも、ガブリエルはかなり革命に賛同し自由を求めていた気がするのだが、どうだろうか?

先述のようにジョルジュがガブリエルを愛していたのは本当だろう。しかしそうであってほしいとはいえ、ガブリエルがジョルジュを愛していたか否かこの手紙からは断定できない。リヴァロルの件を書いたということは、少なくとも無関心ではなかったのだろうが。ルイ・マドランは1914年のダントン伝の中で、ダントンが「ブリュヌが話を盛った」と書いたのは彼女が手紙で夫に早く帰って来るよう求めたからだと述べているが、本当のところは分からない*7。 夫の不在はブリュヌから聞いて予想しても、もしかすると「家族や友人も近くにいるし、一人で楽しくやっているので帰って来て生活を踏み荒らすな」と思っていたかもしれない。そうだったら悲しいけど。

わざわざ「君の近況を受け取ってどんなに嬉しかったか」「いつも手紙を書いてくれ」とジョルジュが書いているあたり、ガブリエルは筆不精で事務連絡しかしないような人だったのか、などなど想像は膨らむ。

まずはこの手紙で言及のあるガブリエルの手紙2つが残っておりいずれ公開されることを願っている。

おまけ

この手紙を読んでいる時、どうしても毛皮のマリーズダンデライオン」が思い浮かんで離れなかった(ので訳文にもちょっとだけ反映されている)。最終連とその後のガブリエルの運命が重なるという点も...

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*1:不明。ただし前後の文脈を踏まえると軍を指す?

*2:その上朝まで遺体を抱きしめていた、それ以上のこともした、遺体を家に連れ帰ってしばらく一緒にベッドで寝てた、等々様々な風説もあるが今となっては検証不可能だろう

*3:黒田礼二がダントン贔屓の伝記の中にそういう記述があったと書いているが、具体的な本はまだ見つけていない

*4:cf. 前川貞次郎(1960)「ダントン研究史の問題: フランス革命史学史の一章」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/72917

*5:ガブリエルの弟の妻で画家のコンスタンス=マリー・シャルパンティエは、ルイーズがダントンの肖像画を「本人そっくり」と言ったと手紙に書いているが、「タブーを破り重い口を開いた」「前の夫が嫌いだった」などのニュアンスは感じられず、日常会話の一環のように思われる。cf. Campagnac. E(1953) "Les portraits de la famille Danton" https://www.jstor.org/stable/41925777

*6:ルイーズ・ジェリーは家族ともども敬虔なカトリックの王党派だと考えられており、彼らの結婚は同じく王党派のガブリエルが革命を止めるために望んだからと理由付けしている。だがシャルパンティエ家の面々は再婚に好意的だったもののガブリエルが死ぬ前に望んだという確証はない。そもそも当時のルイーズおよび家族が王党派だったかも疑わしい。彼女の父親マルク=アントワーヌ・ジェリーはコルドリエ・クラブの会員だった

*7:マドランが未公開のガブリエルが書いた手紙を持っていたのか、あるいはこの手紙から推測したのかは不明。この手紙は引用されているが、ガブリエルの手紙は引用されていない。