Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

アレクセイ・トルストイ『ダントンの死』感想

有名な『おおきなかぶ』の作者でもあるロシア(ソ連)の作家アレクセイ・トルストイによる、ビューヒナー『ダントンの死』の翻案 (1919)。

存在はずっと知っていたが、戦前出版で図書館によっては貴重書扱いされているらしいので読むのは諦めかけていた。だがなんと国会図書館デジタルコレクションで読めた。しかも登録不要で。

dl.ndl.go.jp

概観

筋書きはビューヒナーの原作とほぼ同一。だが原作の良いところ、私が好きなところがほぼ全て消えている。娼婦たちは出てくるのにマリオンは未登場、したがって「節目」の話も出ず。リュシル(本作ではリュシィ*1)はただ「夫を助けて」と泣いてばかりで、原作における生きる権利を要求する胸を打つ叫びは跡形もなく消え失せた。ダントンがブラック校則的理念に反抗する場面もなければ、ダントンとカミーユが二人でいる場面も全カット。なぜ?

また原作にはない史実が導入されている。ダントンの妻は架空のジュリーから史実通り16歳のルイズ・ジェリ(原文ママ)に変更された。ジュリーと違い、ルイズは最後まで自殺しない*2。原作にはない、カミーユが獄中でリュシル宛てに書く手紙は史実のそれが反映されており、非常に感動的である。

一方で原作・史実の双方から改変された点も認められる。

ルイズは死なないが、リュシルも最後まで捕まらない。カミーユの手紙の中で「お前は赤ん坊のために生きてゐなければいけない。(p. 310.)」と、殉死しないよう予め諌めているが。だが見落としていない限り、実際の手紙に「子どものために生きていろ」とは書いていない*3。最後の場面も含め、殉死という行為を否定しようという明確な意図があるのだろう。あとはファーブル・デグランティーヌが何故かアンドレ・シェニエに変更されている。革命期の有名人を無理やり出そうとしたのだろうか?

第一印象は悪かったが、読み込んでいくと良い点も見つけることができた。個々のセリフや描写がほぼ私と解釈一致していた。

ロベスピエールとサン=ジュストのカミーユ・デムーラン評

ロベスピエール: カミーユ!あの男はちっとも危険なことはない!


サン=ジュスト: あいつはあんまりおしゃべりしすぎます。


ロベスピエール: カミーユカミーユ、革命の最も美しいひよこだ!


サン=ジュスト: 僕はあの男が誰よりも一番危険だといふことを主張します。あいつには思慮がない。あいつは才子で感傷的で、まるで女のやうに革命に惚れこんであるのです。 あの男は革命をしてゐます。革命にバラの花かんむりをかぶせてゐます。好事家で怠け者の彼は、ほかの者全部を集めたよりも、もっと国家の威信を毒してゐます。(pp. 261-262.)

「革命の最も美しいひよこ」という表現は思いつきもしなかったが、ぴったりな表現である。カミーユの名が終始繰り返されるのも含め、ロベスピエールが彼を大切に思い処刑をためらう気持ちがよく伝わる。

ロベスピエール: 無慈悲は歴史の法則だ。俺はただこの厳格な役割を行する時間なのだ。恐ろしい。恐ろしいことだ―十四人!カミーユ、ダントン、カミーユカミーユ!(p. 262) 

このロベスピエール、他作品にも増してカミーユのこと好きすぎである。

一方「ダントン派の中でカミーユが一番危険」というサン=ジュスト*4の評価やその理由も、私がカミーユに対して抱いた評価とほぼ同じ。この評価を下すのがサン=ジュストなのも私はぴったりだと思う。サン=ジュストがダントンやカミーユを殺そうとするのは彼らのことが嫌いだからではなく、あくまで革命の実現のためである。そして理念を実現するために突き進む中でも冷静な視点を保ち続けられるのが彼の良いところではないか。

あまりにも私のカミーユ評と一致していたので、他がダメでもこの箇所のおかげで全て許せる気になった。

ルイズの自我

独自の人間性や自我がずっと感じられず自殺の場面で唐突にあらわになるジュリーと違い、はじめからルイズに明確な意見や自我が認められるのも良い。

例えば1幕1場、友人に逃亡を勧められたダントンが「祖国を靴にひっかけて逃げろというのか?」と気にかけるそぶりも見せないと、

ルイズ: あの人はお友達が危険を知らせて下さると、いつでもあんな風な返事をなさるんだわ。

私達パリへ来なければよかった(ハンケチで顔を隠す。)

この上ない正論である。はっきり言われると気持ちが良い。またダントンがもしパリに戻らず田舎に引っ込んだままだったら、それでも処刑されたのかどうかは私の中で気になる問いなので、このセリフには鋭さを感じた。*5

またダントンが九月虐殺の幻影を思い出して苦しむ場面でも、

ダントン: 俺は闇の中へ行つて仕舞のだ、永遠の闇の中へ。そして此処で俺は何にもしてゐる必要はない、何にも思ひ出す必要はない。此れがつまり死の甘さつて云ふものさ。何もかも忘れて仕舞ふって云ふ事が。

ルイズ: 貴君はせめて私だけはいくらかでも思出下さるでせう? 何故私の手を押しのけるのです。 私は貴君から離れたくありません。(pp. 272-273.)

原作の当該場面におけるジュリーへの違和感は、彼女がこれまでのダントンの行いを半ば機械的に肯定するのみだったからだ。一方ルイズは夫への愛や、自分だけは思い出してくれという願いをはっきりと伝える。原作でジュリーに言ってほしかったのはこういうこと、あるいは反対に九月虐殺全否定でも良いが、とにかく自分の考えだった。

もっともルイズの思想は不明瞭だ。革命を積極的には支持しておらず、王政支持でないにしても同情的ではあるようだ。しかし祖国の危機ということで九月虐殺は肯定している。(むしろダントンの方が虐殺の意義をはっきり否定する)彼女は信仰でダントンの気を静めようとするが、正直なところキリスト教を持ち出されても気は静まらないのではないかと思った*6。それでもルイズのキャラクターは魅力的だ。

しかしながら16歳という年齢に特別な意味も感じられないので、史実のルイーズ・ジェリーを持ち出して原作を改変する必要性は微妙。ジュリーのままで良かったのでは?

心情はよく理解できるが、それでもどこか「コレジャナイ」ダントン

ダントンの投げやりな諦念に関して、本作で独自に追加されたセリフにも見るべきものはある。特に彼が「強く恐ろしいダントン」というパブリック・イメージからどうやっても抜け出せず、革命や政治のために個人的幸福を取り上げられてしまう絶望と諦念が見事に表現されている。

いいさいいさ。雛ッ子を四匹と雄鶏一羽とをお前[ルイズ] にやったとした所で、俺はやっぱり相変らずのダントンさ。人間の肉を、子供をおどかす化物を喰ふダントンさ。ところでだ、この先生達は俺をけしかけてゐる―ダントン、君はあんまり長く君の小さな可愛い女の胸の上で現をぬかしすぎてゐた。さあ、来てフランスを救え!とね。(pp. 215-216.)

革命のために個人的幸福を犠牲にせざるをえなかったのはロベスピエール*7だけでなくダントンも同じだが、受け入れたロベスピエールと違って抵抗を試みたんじゃないのかな*8

一方で、娼婦は両方とも登場するのだが原作以上に本作ではダントンの女性に対する欲望が生々しい*9。リュシィとカミーユのセリフからその感じが伝わるだろうか。

リュシィ: あの方またどこかの女と一緒だわ

カミーユ: どうも、あの男は女に対して何だか不思議な慾望を感じてゐるんだ。自分の膝の上に女達を坐らせて、まるでその女達の温かみで自分を暖めやうとでもするやうにその手や、首や、顔や、目を見つめてゐるんだ。 見てごらん、何て苦しい歩き方だ!なんて背中を曲げてゐるんだ! 何か知ら恐ろし[一時空白] 硬直に見舞はれてるんだ。 (p. 269.)

リュシルのセリフに呆れ半分、怒り半分が感じられ面白い。ただしこの場面における、ダントンと虐殺で夫を殺害された女性の邂逅というアイデアは良い。

さらに獄中でもダントンはルイズのことを忘れていたという。

俺は近頃一度も妻の事を想出した事が無い。可愛いさうに、彼女は妊娠してる。(p.309.) 

妊娠させといてそれはないだろ!と言いたい。ルイズの方は彼を愛しているのに。もっともこのセリフはあくまで強がり、本当は彼女を深く思っているという解釈も可能だ。九月虐殺を思い出した時も、結局は「ルイズ、俺を救ってくれ」だし。とはいえ、作品を通してこのダントンはどこかルイズに対して冷淡だ。うわべだけで大切にされてない感が強いというか... とにかく原作でのジュリーとの関係とは何かが違う。まだ「死んだ先妻を忘れることができない」などの理由があれば納得できるんだけど。

その他

最初に文句から書いたものの細かく見れば面白い点は他にもある。裁判の場面における「人殺し!牛殺し!」というダントンへのヤジやエローが自分の職業を「代議士、国会議員、貴婦人の手袋の蒐集」と言うなど、ユーモアも散りばめられている。

あまり触れなかったがカミーユだってちゃんと魅力的だ。

エロー: カミーユはしょっちゅう音楽と人類のことを喋ってる。ジャーナリストだからな。(p. 211.)

なぜか本作では音楽好きである。ジャーナリストと音楽ってあまり関係なくない?1921年版、1931年版どちらの『ダントン』でも歌唱シーンがあったり、アベル・ガンスの『ナポレオン』では最初に「ラ・マルセイエーズ」の良さを発見する役回りだったりするので、この時期にはカミーユと音楽の取り合わせが流行していたのだろうか。

また裁判では珍しくかっこいい姿を見せる。

[職業を訊かれて]

カミーユ(狂気の様に叫ぶ) 革命家だ愛国主義者だ、民衆の代弁者だ!

民衆の声:

ブラボー、カミーユ・デムラン!

あれの云ふ事は本当だ、俺達の護民官だ。 

あれは善良な愛国主義者だ。(p. 282.)

===

なまじ個々のセリフや舞台設定は良く、フランス革命に対する作者と私の感性は相通ずるのではないかと思う。考えていたことを文学作品として見事なまでに先に表現されてしまったので、「趣味の妄想とはいえ、私が歴史創作やる意味なくない?」と全てを投げ出してしまいたくなるほどだ。それだけに全体を読むと「どうしてこうなった?」と言いたい。登場人物の心情や思考にはこの上なく納得が行くのに、その上での言行には違和感が拭えない。ビューヒナーの原作を踏まえた上で読んだので、「どうして改変してまでこうしたの?」という疑問を抱く場面が多々。もっとも、戯曲の改作や演出は必ず言って良いほど反発を生むものだし、この作品ばかり批判するのはフェアじゃない気もする。私が改作しても、きっと酷評や手厳しい批判が飛んでくるだろう。

そして解釈一致していれば良い作品、解釈が違えば悪い作品と言って良いのかという問題もある。私がトルストイ版に肯定的なのは人物解釈が私の考えと合っていたからであり、言ってしまえばえこひいきである。また本当は文学作品はそれ自体で味わうべきなのだろうが、フランス革命期の人物を題材にした作品を鑑賞する時にはどうしても史実や固定イメージをもとに見てしまう。当然、史実のダントンと『ダントンの死』のダントン(あるいは他のフィクションにおけるダントン)は別人であり、ロベスピエールカミーユ・デムーラン、他の人物も同様だ。おそらくビューヒナーのダントンはある程度歴史の文脈から切り離されて造形されたが、トルストイは歴史の要素を強めたように思う。この観点から両作品に優劣をつけるべきなのかどうか、私には分からない。

戯曲の成立過程

「労農ロシア文学」という邦訳本のタイトルや作者の立ち位置からソ連や当時の共産主義思想が何かしら影響しているのだろう、と思っていたら、wikisourceの原文に付随する序文・解説文に経緯が書いてあった。

アレクセイ・トルストイは改作にあたり「ビューヒナーの原作を捨て、史実を取り入れた」と言っている。またトルストイ版『ダントンの死』第一版が上演されると、ビューヒナーの原作を低俗にしたと批判されたらしい。またロベスピエールを冷酷な独裁者に貶めたという批判を受け、改版ではロベスピエールのイメージを下げる要素を取り除き、清廉な人物に変えたという。また初版でダントンとロベスピエールの対立は道徳的動機から対立したが、新版では政治的動機に変更したそうだ。

(以上の内容はdeepLで訳した内容の要約である。ロシア語は全くわからないが、そこかしこでロシア語文献にぶち当たっている現状を考えるとそろそろ本格的に勉強すべき?)

だからロベスピエールの苦しみが、ビューヒナーと比べてより分かりやすいのかと納得した。規則に反対するダントンのセリフがごっそり消えたのもそのせいだろうか。ソ連の思想とビューヒナーの原作、自分が表現したいことを折り合わせるのに作者は苦労したのではないか。

おそらく読んだ時の違和感は、当時のソ連(あるいは共産主義界隈の)文学界の決まり事や背景に慣れていないのもあるだろう。ソローキン『マリーナの三十番目の恋』を読んだ時の感覚と相通ずるというか。文学作品として手放しでは絶賛できないが、それでもこれまで書いたように優れた表現や心情描写は見受けられる。特にフランス革命ビューヒナー好きは一度原作と比較して読んでみると面白いと思う。

 

参考文献:谷口廣治 (1976)「G.ビューヒナー:『ダントンの死』の独自性--A.トルストイとの対比を通じて」『ドイツ文学研究』pp. 114-143.

*1:ロシア語原文からLucyである。LucileとLucieを取り違えたか、ロシア語では区別がないのだろうか。ちなみにLucieはカミーユ(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins) のファーストネームの一部である。

*2:ちなみにルイズは妊娠している設定だが、史実で当時のルイーズ・ジェリーが妊娠していたか否かは両方の説がある。ダントンと先妻ガブリエル・シャルパンティエの息子たちはルイーズの妊娠を否定したと私は読んだことがある。また彼女とダントン家やシャルパンティエ家との交流は革命後も長く続くが、誰もこの件に触れていないようなので、どうやらなかったっぽい?

*3:もっとも実際の手紙にも「オラース(二人の息子)に僕のことを話してやってくれ」などどと書いているため、史実のカミーユもリュシルが生きることを願っている。

*4:なぜか表記はセンジュストだが、違和感が強いので直した。またこの後の場面では「イエロー」という人物が突如現れ、エローの誤記だと気づくまで間を要した。

*5:この戯曲ではダントン夫妻はセーヴルに隠棲している設定である。史実の彼らは一時期ダントンの故郷アルシ=シュル=オーブに滞在したが、1ヶ月程度でパリに戻った。なお彼らはセーヴルに別荘を持っていたようだが、1794年に隠棲したという話は聞いたことがない。

*6:これは私が日本の読者だから感じたのであり、ロシアや西洋の読者にとってキリスト教はより身近なのでルイズの信仰にはそれほど違和感はないだろう

*7:本当にロベスピエールは個人的幸福を諦めていたのか、という問題も認められるのだが...

*8:そもそも出張中の先妻ガブリエルの死とその後の行動からして、革命が個人的幸福を阻むことに対する抵抗と取ることができるのではないか。本作に先妻の存在は言及されてないが、史実を踏まえているなら存在してもおかしくない

*9:ダントンのみならず、エローあたりもそうだ。また原作とは異なりほぼ常に一緒にいるカミーユとリュシィにも、どこか生々しさがある。