Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

バルザック『娼婦の栄光と悲惨』とラスティニャック

バルザック「人間喜劇」の『ペール・ゴリオ』『幻滅』『娼婦の栄光と悲惨』の通称’’ヴォ―トラン三部作’’を読み終わった。色々語りたいところはあるが、最も印象に残った『娼婦~』とラスティニャックについての感想を忘れないうちに書き留めておく(なお、全て藤原書店バルザック「人間喜劇」セレクション版で読み、引用文の出典元もそれからである)。いきなり結末シーンについて書いているので、未読の方はネタバレ注意である。

リュシアンの埋葬に立ち会ったラスティニャック

獄中で自殺した(表向きは病気で突然死ということにされた)リュシアンの埋葬にラスティニャックは立ち会う。しかし本文でも描写されているようにに葬儀の時、埋葬まで立ち会う人数は一般に少なくなるにもかかわらずラスティニャックは立ち会っているのだ。しかし一見すると、彼は一見すると世渡り以外には興味がないように描かれている。そんなラスティニャックは、なぜわざわざリュシアンの埋葬にまで立ち会ったのだろうか?理由はいくつか思いつくが、まず考えられるのはヴォートランの心象を損ねたくなかったからという理由だ。『娼婦~』の冒頭でラスティニャックはヴォ―トランに「もしもあんたがリュシアンを愛する弟のように振る舞わないとしたら、あんたはこちらの手の中に落ちるのだからな」(娼婦 :p. 17)と脅されていた。だがリュシアンの死の時点でヴォートランが逮捕されていたことを彼は知っていたはずである。(ただし、『ペール・ゴリオ』で逮捕されたのちに社交界で再会しているので、再び復活するかもしれないと考えていた可能性はある)

もっとも、ラスティニャックの参列をヴォートランは予期していなかったように思われる。墓地で彼の姿を見たヴォートランは「あの子に変らぬままでいるのは、いいことだ」「おれは君の奴隷になってもいい。君がここに来ているという、それだけのためにね。(略)おれはいつまでも君の役に立ってあげることにしよう。」(娼婦: p. 816)と墓地まで彼が来たことに感激している。だがラスティニャックの方もヴォートランの出現に驚き、嫌悪を示し離れようとしているので、ヴォ―トランに今後助けてもらうために埋葬に立ち会ったとは考えづらい。

ラスティニャックが墓地までやって来たのはヴォートランのためというよりもむしろ、彼自身がリュシアンに対し思うところがあったからではないだろうか。二人ともアングレーム出身で、パリではじめ貧乏生活を送ったのちヴォートランに出会って人生が変わっていく(付け加えれば両者とも容貌が優れている)。ラスティニャックは上手いこと彼のアドバイスを利用しつつ、人間関係を築くことも含めた自らの力で出世街道を邁進していくが、リュシアンは一時の(2回も!)栄光を掴むもすぐに失敗し、ついには命を落としてしまった。初めは薬屋の息子だと周囲に暴露し馬鹿にしていたが(『幻滅』)ヴォートランの息がかかっているということもあり、次第にラスティニャックはリュシアンに自分と近しいものを感じ、死んだリュシアンに「失敗した場合の自分の姿」を見たのではないだろうか?

ラスティニャックという人物は「純真な青年が野心家へと変貌した」例としか語られていないように感じている。だが彼の人物像はかなり複雑さを有しているのではないだろうか。『ペール・ゴリオ』の結末付近では、「超能力を持っていても知らない中国人は殺さない」と答えた友人ビアンションに対して「いつまでも友達でいような」という言葉をかけている。今回のリュシアンの葬儀の場面と合わせて、ラスティニャックは単なる欲得ずくの野心家ではなく、複雑な内面も持ち合わせるように描かれているように感じた。

’’ヴォ―トラン三部作’’の終わり

小説の結末にはヴォ―トランの顛末が書かれているものの、その描写は簡潔で後日譚的であるためリュシアンの葬儀シーンは『娼婦~』の事実上のラストシーンと言っていいだろう。『ペール・ゴリオ』『幻滅』『娼婦~』を’’ヴォ―トラン三部作’’と括ったのは作者本人ではないようだが、リュシアンの埋葬時に(再び逮捕されたが今度は警察として働くことになった)ヴォートランと(名士になった)ラスティニャックが言葉を交わすのは、『ペール・ゴリオ』における二人と対照的である。またペール=ラシェーズにおけるリュシアンの埋葬という場面設定も、『ペール・ゴリオ』のゴリオの埋葬と対になっていると見ることができ、’’三部作’’の終わりにふさわしいのではないだろうか。

この三部作はヴォートランを中心にはしているが、同時に(『ペール・ゴリオ』のみならず後の2作品においても)実はラスティニャックも中心となっているのではないかと感じられた。

・人物表記について

ここまで登場人物たちを「ヴォートラン」「ラスティニャック」「リュシアン」と表記してきたが、よく考えるとこの表記は不規則である。ラスティニャックはファミリーネーム であるがリュシアンはファーストネームであり、「ヴォートラン」という名が使われるのは主に『ペール・ゴリオ』で、『娼婦~』で彼は偽名カルロス・エレーラおよび本名ジャック・コランと呼ばれる。だが藤原書店の『娼婦~』のサブタイトルは「悪党ヴォートラン最後の変身」であるし、またこの人物はヴォートランの名が最も知られているので、ここでも「ヴォートラン」と表記した。

また「人間喜劇」中でラスティニャックの名前はずっと「ウジェーヌ・ド・ラスティニャック」のままである。(また『ペール・ゴリオ』ではウジェーヌと呼ばれるが、『幻滅』以降はずっとラスティニャックと示され続けている。ウジェーヌ呼びは彼が主人公であることを示す?)一方リュシアンの出生名は平民の父の姓を用いた「リュシアン・シャルドン」であり、名門貴族だった母の姓「ド・リュバンブレ」を名乗ることが許されるか否かはリュシアンの行動原理に関わる。『幻滅』でリュシアンが王党派についたのはリュバンブレ姓の使用許可という餌につられたからであり、また『娼婦~』の冒頭でリュバンブレを名乗れるようになってから、彼はシャルドンと呼んできた相手に即座に反論する。以上からウジェーヌ・ドゥ・ラスティニャックを「ラスティニャック」と表記するのに対してリュシアン・シャルドン・ド・リュバンブレ(遺書の署名より)のことは「リュシアン」と呼ぶしかないことがお分かりいただけるのではないかと思う。

まとめ

『ペール・ゴリオ』を除けばラスティニャックは世渡りと金のことばかり考えているため、低俗な人間と言えるかもしれない。だが小説の登場人物として、私には彼がとても魅力的だと思えた。『ペール・ゴリオ』での(純粋に生きようとする)彼の姿を見てきたからかもしれないが、彼の強く生きていこうとする「骨のある姿」は印象的である。まさに『ペール・ゴリオ』ラストシーン以降の彼は「パリと勝負している」のではないだろうか。