Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

虚無主義者アリサ-ジッド『狭き門』

『狭き門』ジッド/中条省平・中条志穂訳, 光文社古典新訳文庫, 2015年

狭き門 | 光文社古典新訳文庫 愛し合う二人の恋はなぜ悲劇的な結末を迎えなければならなかったのか? なぜかくも人間の存在は不可解なのか? 誰しもが深い感慨 www.kotensinyaku.jp  

 

翻訳者の中条省平氏インタビューも掲載されており、興味深い。

翻訳について

戦前から読まれてきたので日本語訳は数多く存在するが、おそらく最新の、光文社古典新訳文庫版が一番好きだ。個人的にバルベー=ドールヴィイ悪魔のような女たち』など中条省平が関わっている訳が好きだからという理由もある。だがそれだけでなく、言葉遣いや言い回しが私たちが今(2020年)使っている言葉に近い。これより古い翻訳だと、「遠い国のお嬢様&お坊っちゃんによるキリスト教の物語」という感触が強く、まるきり私たちと精神構造が違うように感じられる。この訳も100%現代日本の若者の言葉遣いそのものではないが、(いわゆる「てよだわ」も使われている)それでも既訳(私が所有しているのは山内義雄訳)よりずっと我々に「近い(というよりもむしろ遠くない)」物語として受け取ることができるように思われる。光文社古典新訳文庫が掲げる、「いま、息をしている言葉で古典を」というスローガンはすばらしいと思う。

アリサと虚無主義

色々な人の感想をブログで見たり、友人(なぜかこの小説はよく読まれている)たちに感想を聞いたりすると、「とにかくアリサに腹が立つ」「彼女は結局皆を幸せにしていない」「くどくどと訳の分からないことを言わずにさっさとジェロームと結ばれれば良かったのではないか」というようなアリサ批判が多いように思われる。だがアリサはこの結末を迎えるしかなかったのではないかと私は思ってしまう。

アリサにとって宗教(キリスト教)はあくまで自己正当化の手段にすぎなかったのではないだろうか。彼女の中では、宗教よりも先に恋愛(や結婚)への拒絶、さらには虚無主義が先立っていたのではないだろうか。

訳者の中条省平の解説とあとがきには腑に落ちるところがいくつもあったが、私が初めてこの小説を読み通した時から感じていたアリサの虚無主義についても触れられていた。

この小説を読んだポール・クローデルが「アリサの信仰はむしろ冒涜的であり、神が拷問者になってしまう」と批判したことは有名である。クローデルはアリサの「信仰」の本質を見抜いていたと私は思っているが、あとがきで中条は石川淳がアリサの虚無主義を指摘していたと述べている。中条が引用している石川淳の「跋」であるが、収録されている山内義雄訳『狭き門』(新潮文庫, 2013年改版)が手元にあるのでここではそこから引用する。

彼女[アリサ] の行為には何の目的もなく何の効果もない。彼女は、人は幸福のために作られていないと信ずる。人の世に幸福を求めない彼女 は何処にそれを求めようとするのか。何処にも求めないのである。天上の大歓喜にも浸ろうとしない。彼女は犠牲の悦びさえも感じようとしない。(pp. 272-273)

中条は『狭き門』を「愛の崇高さを追求すれば死に至る」ことを示した物語であると述べている。だが私には、アリサの中に最も強くあり、彼女の中で最期に勝ったのは愛よりもむしろ虚無主義ではないだろうかと思えた。

アリサは日記の最後の記述は以下の通りだ。(以下の引用は中条訳からである)

ジェローム、わたしはあなたに完全な喜びを教えてあげたい。
今朝、発作的な嘔吐に襲われた。その直後、ひどく衰弱したと感じたので、一瞬、このまま死んでいけると思った。だが、だめだった。初めはか荒田獣に大きな静けさが広がったが、その後、不安に襲われ、体と心におののきが満ちた。それはまるで、わたしの人生がいきなり、幻滅そのものであると「解明」されたかのようだった。わたしは初めて、この病室の壁がむごく剥きだしになったのを見たように思い、恐ろしくなった。今これを書いているのも、自分を安心させ、気を落ち着かせるためだ。ああ、神さま!あなたを冒涜することなく、最後までたどりつきたい。
まだ立ちあがることができた。わたしは子供のようにひざまずいた......。
 いますぐ、死んでしまいたい、またしてもひとりぼっちで残されたと気づかないうちに。(pp. 255-256)

 

この場面で、アリサは自らの人生の虚無を見出したのではないだろうか。「わたしの人生は幻滅そのものであった」と書いているが、彼女は生きているあいだずっと自らの人生の虚無を感じていたのではないだろうか。彼女は人生の虚無を否定するためにジェロームを愛し、「神を追いつづけた」のではないだろうか。

そもそもアリサは本当のところ、神など信じていなかったのではないだろうか。彼女にとって神は「信じなければならない」ものではあったが、実感として「神がいる」とはとらえていなかったのではないだろうか。だが敬虔なプロテスタントの環境に育ち、母親を否定するためにその価値観にすがらなければいけなかった彼女にとって、神や人生を否定することは禁忌だったのではないだろうか。

もしかすると、彼女は神だけでなくジェロームすら本当はどうでも良かったのではないだろうか。無意識下において、幼い頃見てしまった人生の虚無と孤独を埋めるために、彼女はジェロームを愛すことにしたのではないだろうか。彼女がジェロームを欲しつつ拒んだのは、そもそも彼女の中の虚無にジェロームの存在が打ち勝つことができないと自覚しなくとも理解していたのではないだろうか。

日記にこの言葉を書き終え死を迎える時、それまで拒絶し続けたニヒリズムを理解し受け入れたアリサの前にはジェロームも神もいなかったのではないだろうか。幼い頃、母親の不倫を目撃し、一人で部屋にこもっていた時と同じように。彼女はあの時すでに、自らの人生は孤独に満ちていることを理解していたのだろう。

(ふと、仮定は無意味かもしれないが、もしアリサがパリのようなもっと多様な文化や思想に触れられる環境にいたならば、彼女は「信仰」に走っていなかったのではないだろうかと考えてしまう。政治思想や自覚的なニヒリズムに傾倒し、テロリストとなったアリサの姿を不意に想像してしまった。)

 ただしカトリックプロテスタントの立場の違いを考慮しなければならないだろう。私が中学・高校で垣間見たおぼろげなキリスト教理解はおそらくカトリックの立場によっているが、「神は常に人間とともにいる」というのがキリスト教の教義ではないだろうか?私の理解が誤っているのか、あるいはカトリックプロテスタントの違いがこの表現に現れているのだろうか。

この問題についてもう少し考えるために、先ほど引用した石川淳の「跋」から再び引用したい。

ジッドがニーチェの中に沸きあがるのを見たこの力は、孤独の闇に消えて行くアリサの胸の奥にも潜んでいたのではあるまいか。それは、彼女の場合に於て、うちへうちへと燃え入る炎となったのである。ジッドはなお、「私はニーチェが自ら狂人になったと云いたい」と書いている。アリサの陥った運命も、まったく避くべからざるものではなかった。それは、彼女自ら選んだ道である。(p. 273)

この前に石川はジッドがニーチェについて語った論説を引用しているが、その内容からはジッドはプロテスタンティズムニーチェニヒリズムに達すべきと考えていたようである。となればジッドはアリサのニヒリズムプロテスタンティズムの実践として(=アリサは信仰を実践して死んだと)描いたのだろうか??キリスト教にとって、ニヒリズムは否定すべきものであると私は考えていたのだが...... 

一般のキリスト教ニヒリズムを否定しているが、ジッドにとってプロテスタンティズムニヒリズムに通じていた。だから『狭き門』におけるアリサの「信仰」と死を、ジッドはは信仰の実践として描いたもののの、一般的なキリスト教から見ればむしろ冒涜である、ということなのだろうか。やはり無理筋な気がしてならないのだが。

プロテスタントの観点から『狭き門』やアリサの死について論じた文章はないのだろうか。

結末-ジュリエットの涙

この物語の感想としてよく目にするのは、「屁理屈こねて死んだアリサや独り身を貫き続けているジェロームよりも、結婚して子どもを持つという現実的な幸福を手にしたアリサの妹ジュリエットの方がよほど「狭き門」を通っている」という意見である。しかしジュリエットは幸福だったのだろうか。物語の本当の結末である、ジェロームと再会したジュリエットは不幸ではなくとも、幸せであるとは言い切れないのではないだろうか。確かに社会通念上、裕福な夫と数人の子どもを持つジュリエットは幸せだと考えられるし、社会からしてみれば、彼女は幸せでなければならないだろう。

だがジュリエットが「幸せ」を選んだのは、ジェロームや、さらには姉にたどり着けないことが分かったからではないだろうか。

ジュリエットが涙を流したのはジェロームとの関係だけでなく、姉のアリサとの関係に対してでもあったのではないだろうか。『狭き門』において、特にジェロームの語りの部分においてジュリエットは軽薄な人間であるかのように描かれていた。ジュリエットがボードレールの詩を諳んじたことにジェロームが驚いた場面があったが、ジュリエットが文学への造詣を持つようになったのはジェロームへの思慕によるものであると、ジェロームは考えていたように感じられる。だがその見方は、あまりにもジュリエットの知性を軽視しているのではないだろうか。

ジュリエットは姉の苦しみや、行きつこうとしているところを少しは理解していたのではないだろうか。だから結末で彼女が流した涙は、ジェロームに対する思慕の残りだけではなく、姉に対する様々な感情に由来するものではなかっただろうか。

余談:作品と作者の関係

ここからは完全に余談であるが、作品と、その作者との関係についてはプルーストやらロラン・バルトやらさまざまな論が展開されている。現在においては、作品とその作者の関係は「作品による」としか言いようがないのではないだろうか。作品の内容を作者の実体験と強制的に紐づけるのは乱暴であるが、作品には作者の体験や思想、興味や当時の社会・文化的背景などが全く反映されておらず作者の存在を考えなくとも良いというのもやはり暴論であろう。一方で例えば著作ほとんどが自身の実体験を反映しているルイ=フェルディナン・セリーヌであれば、主人公と作者自身の関係は良く考えられるべきである。第一作『夜の果てへの旅』のフェルディナン・バルダミュやその分身的存在レオン・ロバンソンと作者はある程度別の人間であると私は考えているが、後期の作品では、小説を書き「セリーヌ」と呼ばれる主人公はほとんど作者自身と同一人物かのように描写される。

さて『狭き門』に関して、この物語の筋書きは作者ジッドと妻マドレーヌの関係が元になっていると言われている。確かにこの本の登場人物たちはジッドとその周辺人物を反映している。中条の解説によると、ジッドは父親を早くに亡くし、母親とミス・アシュバートンのモデルとなったイギリス人女性家庭教師と暮らしていた。またにマドレーヌは熱心なキリスト教信者であり、植民地生まれで不倫し家を出た母親のせいで性に対する恐怖を抱いていた。また作品のキーアイテムとなる十字架の首飾りも実在した。この点で言えば、『狭き門』の主人公と作者は重ね合わされるべき存在であろう。

だが何もかも作者と作品(の主人公)を結び付ければ良いというものでもないだろう。例えばジッドが同(両?)性愛者であるからといって、ジェロームも同性愛者であるという解釈短絡的すぎるのではないだろうか。ジッドには『背徳者』のような同性愛を題材にした他作品もあるが、だからといって『狭き門』に同性愛を持ち込むのは乱暴ではないだろうか。(この作品のジェローム以外の男性登場人物としては、アリサの父やビュコラン家の末っ子ロベール、ジェロームの学友アベルがいるので無理くり引っ付けようとすればできないわけではないのだろうが......)「アリサやジュリエットに比べてロベールの描写が極端に少ないのは、実はジェロームと関係を持っていたからだ」というのは二次創作や翻案としては興味深いかもしれないが、『狭き門』自体の読みとしては飛躍しすぎているだろう。

作品と作者の関係を考えるたびに『狭き門』と同性愛の例を思い浮かべてしまうので、つい書いてしまった。