Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

Et mourir de plaisir

ゴス好きなのに、吸血鬼にはあまり惹かれない。

確かに幼い頃「子どものための世界文学全集」で一番好きだった話はカーミラだったが、成長するにつれ次第に吸血鬼から心が離れていった。おそらく「耽美、貴族、フリルひらひら」イメージが鼻についたのだ。次第にシンプル志向が高まり、行ったこともあるヴェルサイユ宮殿も言葉を選ばずに言うとダサいとすら思った。

そんなわけであまり吸血鬼が登場する作品は観なかったが、『ビザンチウム』は気に入った。舞台がおそらく現代の淋しげな海沿いの街で、「耽美、貴族、フリルひらひら」が少なかったからかもしれない。

ロジェ・ヴァディム『血とバラ』Et Mourir de plaisirを観た。

1960年の映画であり、古城と一部のドレス以外は同時代の物語なので「耽美、貴族、フリルひらひら」は思いの外少なかった。

ナレーションを鑑みると墓所のシーンからカルミラはミラルカに乗っ取られると見るべきなのだろうが、その後の場面でもカルミラの自我は残っていたように思える。彼女が血まみれの自分の姿を認め、鏡を破壊する場面はカルミラの自我でないと辻褄が合わない。

レズビアニズムの発露と言われている温室の場面では、カルミラ(あるいはミラルカ)よりもむしろジョルジアの側にそのような感情を感じてしまった。彼女が唇に血を浮かべながらカルミラを見つめる表情、カルミラの接吻を受け入れたあたりにその要素を感じたのだ。

だがナレーションによって解釈が狭まってしまうのは残念だった。終盤で医師が語った「カルミラはレオポルドの結婚に耐えきれず、自分をミラルカだと思い込んだのだ」というのもまた真実ではなかったか。またカルミラの死と同時にジョルジアが叫び声を上げる場面は、身体をミラルカに乗っ取られたのみと解釈するのはあまりにも惜しい。あるいは語りを無視するとはじめからミラルカはジョルジアに宿っていたという解釈もできるのではないかと考えてしまった。

舞台音楽も恐怖ではなく切なさや寂しさを演出している。『まぼろしの市街戦』もそうだが1960年代のヨーロッパ映画音楽はそこはかとない郷愁と寂しさを感じさせる。

この映画を見ようと思ったきっかけはGille' Lovesの「血と薔薇」という楽曲である。このバンドについては未詳だが、日本のヴィジュアル系やゴスロックの先駆けらしい。このバンドのリーダー(?)Lucifer Luscious Violenoué氏のソロやFictionというバンドも気になっている。

どこか夢想的なノイズに心惹かれる。またPVも昔のビデオの画質の粗さのせいか、やはり甘美な夢のようだ。容姿とは裏腹に甘いヴィオルヌの歌声もどこか中毒性を持っているように感じる。ヴィオルヌの世界観は耽美そのものだが、不思議と嫌味を感じない。

これを期に90年代のヴィジュアル系も改めて聴いてみたのだが、今の所はまだハマる感じがしない。私が好きなのはあくまでゴスなのかと感じている。