Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

ベン・ハリスン『死せる花嫁への愛』ロマンティックとブラックコメディの間

本を読んでこんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。

『死せる花嫁への愛―死体と暮らしたある医師の真実』|感想・レビュー - 読書メーター ベン ハリスン『死せる花嫁への愛―死体と暮らしたある医師の真実』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、 bookmeter.com  

放射線技師で自称医師のカール・フォン・コーゼル(カール・タンツラー)が、恋した女性エレナの遺体を死後2年後にエンバーミングした上で共に7年暮らしていた実際の事件について書かれたノンフィクションだ。事件自体の概要はこちらを見るとわかりやすい。(リンク先はエレナの遺体の写真が登場するので苦手な方は注意。ちなみにこの記事に写真はありません。)

※なぜ「フランス革命」のタグつけたの?20世紀アメリカの話だろ!仏革の話が読みたいんだけど!と思った方へ。余談まで飛んでください。

 

前代未聞の死体コメディ

いったいこの事件の笑うところがあるのか、おかしいのはお前の頭ではないのかという声が聞こえてくるが、私が腹を抱えたのは事件発覚-裁判の一連の流れだ。コーゼルがエレナとともに築いてきたロマンスが、突如ブラックコメディに変貌する。
事件が発覚したのはエレナの姉ナナが「コーゼルは妹の死体を家に置いているのではないか」と疑い、彼に墓を見せるよう迫ったことがきっかけだった。姉の疑い通りエレナはコーゼルの家のベッドにいた。ナナの通報でコーゼルは逮捕されたが、前代未聞の事件であったため裁判関係者もコーゼルをどう扱えば良いのか困惑したという。

説明はこれくらいにして、特に笑ったところをどうぞ。

エレナを見つけるのを何よりも恐れているナナの気持ちを、フォン・コーゼルは理解していなかった。この奇矯なドイツ人の男が妹のエレナの死体を持っているなどと認めたくなかった。考えただけでも吐き気がするので、それが事実でないことを確認したかった。さもなくば、とんでもないことだが、万が一にもそれが事実であっても知りたかった。

ハリスン, p. 156

逮捕された瞬間、いいか悪いかは別として、フォン・コーゼルの人生は劇的に変化した。文字どおり、一晩で遠い小島の孤独な変人は、世界的に知られる人物となった。無名の人からたちまち有名人になった。フォン・コーゼルは時の人となったのだ。

ハリスン, p. 160

折に触れ、わたしの友人などが町で取り沙汰されている噂を教えてくれました。わたしは気にもかけませんでしたが、皆がエレナはいるべきところにいないのじゃないか、としつこく言ったのです。今になってみると、もっと早くその疑いに対して行動すべきだったと思います。

ハリスン, p. 174

「彼は何も悪いことをしていない」というのが一般的な意見のようだ。 七〇歳の老科学者は、精神鑑定のために保護下に置くべきだろうが、たとえ短期間でも拘置所に監禁されるような悪いことはしていない、という空気がここにはある。

ハリスン, p. 200

このような状況であったから、裁判になったとしても、陪審はどう考えてよいのやら、何を信じてよいのやらわからないという可能性は充分にあった。 

ハリスン, p. 240

ナナの嫌悪と糾弾、司法関係者の困惑、珍奇な事件に好奇心を寄せる街の人々の姿が生き生きと頭に浮かぶ。

コーゼルの裁判中、エレナの遺体は公開されキー・ウェスト(物語の舞台の街)の住民が押し寄せた。さらに判決後もエレナの遺体が街の名物として保存される案もあったらしい。エレナにしてみれば勘弁してくれと言いたくなるだろう。生前そのままならともかく、埋葬後2年経過した上に素人がエンバーミングした姿を公衆の面前に晒されるのは何かの罰だろうか。彼女はそれに値するような罪を犯したのだろうか?
ちなみに私は遺体の写真を見た時気持ち悪いとは全く思わなかった。しかし、エレナには大変無礼な発言であることは理解しているが、正直なところ気の抜けたマヌケ面で生前の美しい姿が台無しだ。コーゼル一人が楽しむ分にはまだ良かったかもしれないが、街の見世物にされるのはあまりにも哀れだ。たとえ皆がエレナを「死後も愛された人」として好意的に見ていたとしても。
結局エレナの遺体は場所が伏せられたまま再び埋葬された。ちなみにこの章は「エレナよ、永遠に眠れ」と題されており、個人的にとても気に入った。

ただし著者はコーゼルやナナ、キー・ウェストの人々を単に笑いものにしたわけではなく、語りには温かみが感じられる。例えばコーゼルは逮捕されたものの実のところ街の人々の多くは彼に対して好意的な態度を示したエピソードが数多く語られる。食料や犬の世話などの援助を持ちかけた人もいたし、彼のファンの女性たちが留置所まで面会にやってきたこともあった。コーゼル自身も「エレナを奪われてわたしは呆然としていたが、この世にはよい人々が今なおいることを知った。(p. 165) 」と振り返った。

また彼の支持者ではない人々のコーゼル観も基本的に暖かく優しい。

とくに女性たちは一致団結してフォン・コーゼルの味方となっており、事件の関係者はそのことを意識していた。男性のつねとして、酢漬けになった女をつつくなんて頭が変でなければできないなどと、こっそり卑猥な冗談を言ったかもしれない。 フォン・コーゼルが暁方に帰宅しても、エレナは罰に芝刈りをさせなかったし、気にもかけなかっただろうと笑い合った。しかし男たちも、女を愛するあまり手放せなかったフォン・コーゼルに対して、寛大であり批判的ではなかった。

ハリスン, p. 218

この本はコーゼルを糾弾することを目的とはせず、世間の規範や価値観から外れてはいるが自身の愛を貫いた男に対し半ば茶化しつつ暖かく同情的な目線を注いでいる。

コーゼルとは何者だったのか?

本書で彼は「フォン・コーゼルは魅力があり、決然とし、威厳を備え、姿勢正しく、科学的で、そして何よりもこの世のものとも思われないほどのロマンティストだった。(p. 218)」と語られている。彼が恋と死の間で狂った人間なのか、あるいは単に身勝手な変態なのか、現在でも意見が分かれるところである。私の意見としては、本書通りコーゼルは「科学に魅せられた行き過ぎたロマンティスト」だったように思う。彼が「魅力があり...姿勢正し」かったか否かは今となっては判断しようがないものの、彼がエレナを愛し(アカデミックなものと性質は違えど)科学に身を捧げたのは事実だ。(そもそも「変態」であること自体が糾弾に値するのかどうか、私は疑問である。快楽殺人犯のように他者に過度な損害を与えるのでなければ、世間の価値観から逸脱した好みを持つことは何の罪でもない)

本書を読んで初めて知り印象的なのは、コーゼルがかなり「科学」に重きを置いていたことだった。彼の主目的はエレナを生き返らせることで、彼女の精神の蘇生には成功したと考えていたことは読むまで知らなかった。彼の飛行機のこと、機体にエレナを載せたことも初めて知った。
またコーゼルがこの事件を起こすきっかけとして、見落とされがちだがこの部分は重要だと思う。

いとしいエレナ、おまえと一緒にいられてとても幸せだ。
こんなことは異様な狂った行為に思えるかもしれないが、わたし自身もかつてインドで死者として横たわっていた経験がある。自分ではベッドで眠っているつもりだったが、実際は死体置場に安置されていたのだった。 このわたしの体験や、多数の人々の記録から、死が命の終わりではなくて、墓場 からの復活が現実に有り得ることを知っている。

ハリスン, p. 109

コーゼル自身が一度「死体になった」(=死んだと思われて安置所に運ばれた後で息を吹き返した)経験は、彼の死生観に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

この事件について語る際にはしばし屍姦の有無が問題にされる。(少なくとも日本語で書かれた文章では)コーゼルはロマンティストではなく単なる変態だと。しかし屍姦の有無はそんなに重要だろうか?彼は手当たり次第墓場を荒らし遺体を犯していたわけではない。またp. 218の街の噂からは事件当時の人々も「そういう行為に及んでもおかしくない」と考えており、屍姦の発覚が彼の評価を大幅に下げたとは考えづらい。本書の結語も、「医師たちがフォン・コーゼルの真相(注:コーゼルとエレナの死体との性行為。事件発覚から約30年後に初めて明らかにされた)を明かしたならば、世間の反応はどう違っただろうか? おそらくそう違わなかったのではなかろうか。一九三〇年代、一九四〇年代のキー・ウェストという小さな社会では、実を言うと、おそらく皆知っていたにちがいない。(p. 275) 」である。
これが問題となるなら、それは生前のエレナがコーゼルをどう思っていたのか結局のところ不明だからではないか。一方的に思いを寄せた男が死後その相手をダッチワイフ化していたのなら気持ちの良いものではない。だが彼らが生前から愛し合った恋人同士や夫婦だったのなら、大した問題にはならなかったのではないだろうか?エレナ自身あるいは彼ら二人をよく知る中立的視点の人物の証言が残っていないので、今となっては生前の彼らの正確な関係を推察するのは難しい。

私としてはコーゼルは常軌を逸しているものの糾弾すべき変質者とは言えないと思う。その行き過ぎた情熱も結局エレナと彼の「科学」に向けられたにすぎず、生者を深く傷つけ大きな損害を与えたわけではない。美談ではないと思うが、彼は「真摯な行き過ぎたロマンティスト」にすぎなかったと思う。

今回はあまりエレナの死-二人の蜜月は取り上げなかったが、一箇所美しい表現があったので紹介する。

「こんなふうにやればいいわ。 闇夜になったら大きな毛布を持って来るの。 そして毛布をフェンスの杙にかける。そうすれば通りや家からあなたの姿は見えないわ、カール。 隣の墓にいる女性は、わたしの友達なの。喜んで手伝ってくれるわ」

ハリスン, p. 113

エレナ(の遺体)がカールに脱出計画を説明する際の台詞(コーゼルの想像?)だ。基本的に事件発覚までは「カールとエレナ二人の世界」の印象が強かったが、「墓場のお隣さんが友達」というのは上手く言語化できないが、良いイメージだと思う。

余談

※ここからの記述はコーゼルやエレナとはあまり関係ありません。

私がコーゼルとエレナの話で思い浮かぶ類例として、フランス革命下の一挿話がある。
死体を家に持ち帰ってはいないものの、フランス革命の立役者ジョルジュ・ダントンは最初の妻ガブリエル・シャルパンティエの墓を掘り返し、デスマスクを取り彫像を作らせ、死ぬまで眺めて暮らしていた。1793年2月、ガブリエルは夫の出張中に急死し、帰還前に彼女の父親が葬儀を執り行い埋葬してしまった。(ジョルジュは彼女の遺体を抱きしめて接吻したそうだ。それ以上のことをしたのかどうか、私は知らない。
その彫像は現在フランス・イゼールの「フランス革命博物館 (Musée de la Révolution française) 」に展示されているそうだ。(損傷が少ないだろう)冬の死後1週間後に、愛し合う夫の願いにより著名な彫刻家の手で作られたとはいえ200年以上も博物館で死に顔を晒されるというのもなかなか嫌じゃないか。撤去されたり再び埋葬されるという話も特に見られず、挙句の果てに2020年には「パンデミックでも家で芸術に親しもう」特集のトップを飾った。( リンク先フランス語) 「コロナ禍は人の死顔を見て楽しもう!」というのはなかなか良い趣味だ。

コーゼルらとは違い、ガブリエルとジョルジュは恋愛結婚で生前は互いに愛し合い続けたのは確かだ。彼らにとって不幸だったのは夫が「遠い小島の孤独な変人」ではなく「世界を導く革命の共和国フランスの偉大な指導者」だったし、そうで有り続けることをみんな望んだことだ。「いとしいガブリエル、この世で俺たちだけしかいないね、俺と君だけだ。だが幸せだし、満ち足りている。いつまでも一緒にいような」( ハリスン, p. 140のパロディ)というわけにはいかなかった。ダントンの政治的能力は高かったものの、パブリックイメージに反して彼には気力が不足していた。彼は皆が思っていたほど強靭な精神を持っていたわけではない。
ガブリエルが死んで彼は革命への熱意、それどころか多分生きる気力も失った。数カ月後に再婚したが、その主な理由はどうやら残された子どもたちに新しい母親が必要だという実用的なもので(再婚相手のルイーズは生前のガブリエルと仲がよく、彼らの子どもたちを世話していた)、再婚を後押ししたのはガブリエルの遺族だったようだ。(彼女自身が再婚するように遺言したという説もある)
ダントンはガブリエルの死からおよそ1年が過ぎた1794年4月にロベスピエールらと対立しギロチンにかけられた。恐怖政治や粛清には反対したが、彼自身は生きていたいと思っていなかったように感じる。『死せる花嫁への愛』にはロマン主義について、「生きている者が死者と結ばれるために自殺するのが、究極の愛の表現となる……(ハリスン, p. 274)」とあるが、ガブリエルとの死別後のジョルジュの人生は半ば緩慢な自殺だったのではないかと私は思う。
ただし盟友カミーユ・デムーランとその妻リュシルをはじめ、多くの仲間や政敵がこの「緩慢な自殺」の巻き添えを食って命を落としてしまったのだが。

※ さらに話が逸れるが、カミーユ・デムーランが死ななければならない合理的理由を私は今まで見つけられていない。彼には助かるチャンスが何度もあった。『フランス革命史』のジュール・ミシュレも「かわいそうなカミーユ、彼はいったい何だったのか?ダントンの上に咲いたすばらしい花。一方を引き抜くにはもう一方に触れなければならない… (wikisourceより拙訳。出版された既訳はこの部分が省略されている)」と、美しい表現だが説明にはなっていない記述しかできていない。確かなのはダントンが死にゆくにあたってカミーユを離そうとしなかったこと、カミーユの方もダントンから離れようとはしなかったことだ。そしてカミーユが死んでしまうとリュシルも死を選んだ。


これ以上書いてしまうと主役がコーゼルとエレナから彼らにすり替わってしまいそうだ。いつか彼らについてもちゃんと記事を書くつもりではある。