Je t'aime comme la tombe.

フランス革命萌え語り。あとは映画と野球?ハムファンです。

フィアー・ストリート覚え書き

Netflixオリジナルの『フィアー・ストリート』三部作を観た。色合いや音楽、予想より激しかったスプラッター要素(特に1と3)と娯楽として非常に満足している。詳しい感想というよりは気になった点を覚え書きとして以下記す。

※ネタバレ注意

ルビー・レーンと殺人鬼たち

呪いに従って主人公たちを襲いに来る殺人鬼たちの中で、ルビー・レーンだけ人格を感じさせた。他の殺人鬼たちは無言で何らかのマスクをかぶっているのに対し、彼女はメイクはしているものの素顔を見せ笑顔で歌いながら襲いかかる。確かに1994年にいる登場人物から「セクシー」と評されるようなメイクや服装、態度は本来の(1のチャットによれば1965年に凶行を起こした)彼女と異なっていて、呪いに取り憑かれた結果という可能性も考えられる。だが新聞記事の写真と比較すると、他の殺人鬼たちの変貌と比べるとそれほど元と変わらないように思える。また母親のメアリーは「聖歌隊に所属し、夢は歌手だった」と言っており、歌いながら登場する点と呼応している。彼女が殺戮へと至るまでには、単なる憑依ではなく彼女自身の精神状態や変貌があったのではないかと考えてしまった。

また殺人鬼たちも全員が1994年のディーナたち、あるいは1978年のジギーたちを襲いにくるわけではないようだ。1666年の(3で出てきた)サイラス・ミラーらしき人物はいなかったし、1で話の中だけに出てきた1935年のハンプティ・ダンプティ・キラー(詳細不明)もおそらくいない。2と3で出てきた殺人鬼の一人(作業着にスケキヨマスク?)が誰かわからなかったが、服装を考えると1の「牛乳屋」だろうか。

手の骨に血

結局「サラの手の骨に血を垂らす」と命を狙われる関係はミスリードに過ぎなかったのだろうか?3の手首のシーンと血を垂らした時の顔が同じなので、あの映像を見せているのはグッド家による(サラのせいだと偽装するための)小細工というよりのはサラ自身で、彼女は血を垂らしたものに真実を訴えかけようとしているのだろう。しかし血が垂れるとサラの訴えとは別にグッド家の呪いシステムに引っかかり、ターゲットにされるのだろうか?(このあたりは見落としている可能性がある)

ナイトウィングもろもろ

・2でニックははじめから呪いのことを知っていたのだろうか?3ではどこかのタイミングでグッド家の父から長男に呪いが伝承されると説明されたが、ナイトウィングの惨劇はニックが起こしたのか、あるいは父親なのか?

またニックはジギーを一旦殺したあと自ら蘇生させようとしたのだろうか?一度襲われれば蘇生できるかどうかは運次第(1のスライサーは無理だろう)だと思うので、好意を向けた人を一度殺すのはリスキーだと思うが。(あるいはグッド家は呪いで死んだ人を蘇生できる能力があるのか?)そうでないのなら、殺戮のターゲットを誰にするかはグッド家もコントロールできないように思われる。

ニックがジギーに好意を抱いていたこと自体は偽りではないと思われる。またナイトウィング後に二人が疎遠になったのは、呪いの存在を知られたニックが一方的に離れたというわけではないようだ(ジギーも会おうとはしなかったようだ)。3でもニックはジギーに、「キャリー」作戦を食らうまでは敵意は向けていない(まだ好意は残っている?)ようである。

ナイトウィングで1のケイトの母の妹が犠牲になったというセリフがあるけれど、2の殺害描写があった中に彼女もいたのだろうか?

以上つらつらと覚え書き。ルビー・レーンや他の殺人鬼のスピンオフがあったら良いなと思った。スプラッターと謎が好きな方、70年代や90年代の音楽や文化、ファッションが好きな方に特におすすめである。


Et mourir de plaisir

ゴス好きなのに、吸血鬼にはあまり惹かれない。

確かに幼い頃「子どものための世界文学全集」で一番好きだった話はカーミラだったが、成長するにつれ次第に吸血鬼から心が離れていった。おそらく「耽美、貴族、フリルひらひら」イメージが鼻についたのだ。次第にシンプル志向が高まり、行ったこともあるヴェルサイユ宮殿も言葉を選ばずに言うとダサいとすら思った。

そんなわけであまり吸血鬼が登場する作品は観なかったが、『ビザンチウム』は気に入った。舞台がおそらく現代の淋しげな海沿いの街で、「耽美、貴族、フリルひらひら」が少なかったからかもしれない。

ロジェ・ヴァディム『血とバラ』Et Mourir de plaisirを観た。

1960年の映画であり、古城と一部のドレス以外は同時代の物語なので「耽美、貴族、フリルひらひら」は思いの外少なかった。

ナレーションを鑑みると墓所のシーンからカルミラはミラルカに乗っ取られると見るべきなのだろうが、その後の場面でもカルミラの自我は残っていたように思える。彼女が血まみれの自分の姿を認め、鏡を破壊する場面はカルミラの自我でないと辻褄が合わない。

レズビアニズムの発露と言われている温室の場面では、カルミラ(あるいはミラルカ)よりもむしろジョルジアの側にそのような感情を感じてしまった。彼女が唇に血を浮かべながらカルミラを見つめる表情、カルミラの接吻を受け入れたあたりにその要素を感じたのだ。

だがナレーションによって解釈が狭まってしまうのは残念だった。終盤で医師が語った「カルミラはレオポルドの結婚に耐えきれず、自分をミラルカだと思い込んだのだ」というのもまた真実ではなかったか。またカルミラの死と同時にジョルジアが叫び声を上げる場面は、身体をミラルカに乗っ取られたのみと解釈するのはあまりにも惜しい。あるいは語りを無視するとはじめからミラルカはジョルジアに宿っていたという解釈もできるのではないかと考えてしまった。

舞台音楽も恐怖ではなく切なさや寂しさを演出している。『まぼろしの市街戦』もそうだが1960年代のヨーロッパ映画音楽はそこはかとない郷愁と寂しさを感じさせる。

この映画を見ようと思ったきっかけはGille' Lovesの「血と薔薇」という楽曲である。このバンドについては未詳だが、日本のヴィジュアル系やゴスロックの先駆けらしい。このバンドのリーダー(?)Lucifer Luscious Violenoué氏のソロやFictionというバンドも気になっている。

どこか夢想的なノイズに心惹かれる。またPVも昔のビデオの画質の粗さのせいか、やはり甘美な夢のようだ。容姿とは裏腹に甘いヴィオルヌの歌声もどこか中毒性を持っているように感じる。ヴィオルヌの世界観は耽美そのものだが、不思議と嫌味を感じない。

これを期に90年代のヴィジュアル系も改めて聴いてみたのだが、今の所はまだハマる感じがしない。私が好きなのはあくまでゴスなのかと感じている。


失われゆく香りを求めて

あけましておめでとうございます。三ヶ日は毎年新しいことを始めようと決意する。だが結局考えるだけで実行したことはほとんどない。新しいことはいつも何気なく始まる。

さて、2021年は香水を常用しようかと考えている。中学生の頃から香水が好きで、ミニチュアを雑貨店で買って集めていた。しかし通っていた中高は香水どころか香りのする柔軟剤も禁止(実家は基本的に使っていなかったが、おそらく周囲の家庭は使っていたのではないか)だった。大学に入ってからも香水をつけること自体が香害ではないかと考えて、ほとんど使えなかった。私も、ムエットをチェストやクローゼットに入れてはいた。ほんのりと良い香りが移る気がした。

だがレジ打ちのアルバイトをしていた時、時々客のほのかに匂う香水に好感と憧れを抱いた。それからはたまに香水を使っている。だが香りが弱いのか、あるいは強すぎて迷惑になっているのかわからないが、知人からは何も指摘されたことはない。

2021年のテーマは今のところ「楽しい人になる」ということの他に「我を通す」とも決めているので、そろそろ香水を常用しようかと考えている。

候補としては、

La fin du monde-Etat libre d'orange

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札幌から撤退してしまったNose shopで、試供品サイズを手に入れた。Etat libre d'orangeというフランスの香水メーカーの香りはどれも性に合う気がして、ミニ香水を3種類くらい持っている。La fin du mondeが1番気に入っている。昨年1番聴いたGrimesのMiss Anthropoceneに収録されている、Before the feverという曲を香りで表現したらこうなるのだろうと思った。

オンラインショップでは売り切れているが、再入荷したら50mlを手に入れるかもしれない。

Hypnotic Poison-Christian Dior

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大きいサイズは公式で廃盤だが、2020クリスマスコフレにミニサイズが入っていた。スパイスに溢れた杏仁豆腐+リキュールのような香りである。とにかく甘いので、冬向きだろう。ここ3年くらい密かに好きなアイドル、モデルの村田実果子が使用しているので気になった。(敬称略)

Forbidden Affair -Anna Sui

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こちらも公式では廃盤。中学生の時に雑貨店で買って以来気に入っている。ゴスでガーリーな瓶とは裏腹に、フローラル&フルーティーでかなり甘いのに後味は爽やかですらある。

普段使いにできるのはLa fin du mondeだろうか?Etat libre d'orangeの香水をもっと試してみたい。日本国内ではNose shopしかとりあつかっていないのだろうか?あと二つは常用には甘すぎるかとも思うが、かなり気に入っている香りなので定期的に使いたい。今後はメンズ香水も試そうかと考えている。(試供品の、DiorのSauvageがかなり良かったので)

余談だが、昨年になってしまった2020年はドルチェ&ガッパーナのおかげで香水という曲がヒットした。潜在意識のうちにそのことが影響していたのかもしれないが、少なくとも記事を書いている間にはその曲は浮かばなかった。(書き終わった途端に存在を思い出したのだ)




虚無主義者アリサ-ジッド『狭き門』

『狭き門』ジッド/中条省平・中条志穂訳, 光文社古典新訳文庫, 2015年

狭き門 | 光文社古典新訳文庫 愛し合う二人の恋はなぜ悲劇的な結末を迎えなければならなかったのか? なぜかくも人間の存在は不可解なのか? 誰しもが深い感慨 www.kotensinyaku.jp  

 

翻訳者の中条省平氏インタビューも掲載されており、興味深い。

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LINEに限らずチャットが苦手

必要な連絡以外のLINEが嫌いだ。いや、LINE社が提供しているサービスだけをことさら嫌悪しているのではない。MessengerやTwitterInstagramなどのDM、さらにメールでも、個人的な雑談は好きになれない。たまに送ってみようと入力欄に文字を打ち込んでみると、送信すべきでないとの思いが高まってすぐに文字を消してしまう。

対面での雑談が極端に苦手というわけではない。人見知りだし人と話すのが好きではないが、それでも他愛ない話題が思いのほか続くと楽しい気分になる。思いがけない話題で笑いが満ちると1週間は幸せな気分になる。(笑いすぎてしゃっくりがその日一日止まらなかったこともある)2020年3月までは、研究室の居室で先輩や後輩、同期と、アルバイト先では同僚(学生も、パートの方々も)日々笑いあったものである。(現在は居室に集うことがなくなったので、雑談がものすごく下手になってしまった)

しかしその内容を文字にしてしまうとその事柄がとてつもなく重要な意味を含んでしまうように思われるのだ。私にとって思いやトピックを文字にして他者に直接送るのは、重大な行為である。「今週はめっきり寒くなった」とか、「日本シリーズ見た?(周りに野球好きはほとんどいないが)」とか、聞いても聞かなくても良さそうなトピックは送るに値しないと判断されて、文字を奪われてしまうのだ。文章を誰かに送るということは、私にとって殺人や接吻のように重大な行為であるように思われる。

何度かチャットによる雑談を仕掛けてみたことはあるが、それでも私が会話を続けるのが苦しくなってしまって終わった。喧嘩や弾劾があったわけではない。次第にやりとりが空虚と変わっていくような気がしたのだ。相手と実際に顔を合わせると、何時間でも話していられるし、黙っていてもそれが心地よいのに。

結果として、私は誰ともチャットを使った個人的雑談をしなくなってしまった。

だが必要な連絡、「明日の授業の課題ってどこまで?」とか「来週末良かったら(場所)に行こう」など、連絡しないと始まらない連絡はあまり億劫ではない。必要性が言うまでもなく感じられるからだ。「必要」とか「役に立つ」という概念が好きではないのに、こういうときはこれらを判断事項にしてしまう。

一方でTwitterやこのNoteのように、特定の誰かに向けずに好きなように好きなことを書く場所では、それほど恐れずに文章をしたためられる。(Noteをはじめとするブログは放置しがちだが)現にこの話題も、はっきり言って文書化しなくても誰も私も困らない。だが、LINEをはじめとするチャットが苦手な気持ちを文章化せずにはいられなくて、こうして文字を重ねていく。

 

 

フランス語ポップについて

2022年12月25日:はてなブログへの移行でリンクを編集。La Femmeは4枚目のアルバムを出し、Therapy Taxiは解散してしまった。

よく英語を学ぶ中高生に、洋楽や洋画、英語のドラマを見て勉強しようというアドバイスを耳にする。私もQueenLed Zeppelinに夢中だった高校時代はそのアドバイスに従い、それなりの結果を得られたと思う。大学に入ってフランス語を学び始め、ちょうどハードロック以外も聴こうと考え始めて、一石二鳥を狙って(割と最近の)フランス語のポップを探し始めた。実を言えばその前から映画の関連でフランス・ギャルやシャンタル・ゴヤは好きだったのだが、もっと新しそうなものを聴きたかったのである。

それほどフランス語音楽に精通しているわけではないが、数年探して特に印象に残っているものを紹介する。youtubeを置いておくが、おそらくどれも各種ストリーミングサービスにあるはずだ。(少なくともApple musicには2020年8月25日現在ある)

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好きな文庫本

趣味欄に読書と書いたことがない。

しかし私は読書が好きだ。大学で空き時間ができれば図書館に向かい、街に出ると必ず本屋に立ち寄る。本を読むという行為は歯を磨く、食事するのと同じような日常動作の一部となっていて、特別な趣味とも思えない。

ただし読む本のうちの大半は図書館のお世話になっている。読む本を次から次に買ってしまえば2週間で破産の憂き目だ。それでも私は本屋に行き本を買うことが好きだ。所有する本が増えると、衣服や化粧品が増えていくのとは確実に異なる満足感や充実感を覚える。

予算の関係と持ち運びやすさ、ひいては読みやすさ)から私が買う本の大半は文庫本だ。しかし世の中には多種多様な文庫本レーベルが存在する。色々な文庫本を買ってきたが、(部屋にあるだけで15種類)、その中でも私が好きな文庫本レーベルを3つ挙げる。

河出文庫

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河出文庫の1番の魅力は装丁だ。カラーのツルツル感と相まって遠くから見ても目を惹く気がする。本棚の中で鮮やかに輝いているように思えるのだ。

初めて読んだのがランボー全詩集で、その後アルトーの作品が続々出ていたのでアバンギャルドな印象がある。ちなみに中学3年の頃はランボー全詩集と『神の言葉と訣別するため』の2冊を常に持ち歩いていた。

光文社古典新訳文庫

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手に馴染むマット系。抽象的だが読了すると本文の内容と合致していることが分かる表紙イラストも良い。

中高生の時に学校の図書館に全て揃えられていたので、その時はずいぶんお世話になった。それどころか、もしこのレーベルがなければ私は仏文どころか文学部を選ばなかっただろう。「いま息をしている言葉で古典を。」というキャッチフレーズが素晴らしい。しかし作品セレクトの基準がよくわからない。初めは既訳が入手困難だったり本邦初訳の作品が多かったが、最近は手に入りやすい既訳が存在している作品の翻訳が増えた気がする。(外国文学の需要を考えると仕方ないのだろうか) ただし『未来のイヴ』や『狭き門』など既訳が読み辛かったり登場人物の話し言葉現代日本語と相容れないような作品の新訳は良いと思う。

ちくま文庫

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ツルツルしておらずマットとも言えない、最も文庫本の表紙の中でノーマルだと思われる紙質(名称は何だろうか)。装丁のお気に入りは「ロルドの恐怖劇場」。真面目なセレクトが多い印象があったが、よく考えると栗原康編のアナキズム・アンソロジーブコウスキーなど意外と攻めていた。

私は本を内容だけでなくモノとしても愛しているのだと思った。図書館で借りるだけでなく、買うに至る本は内容もさることながら、モノとしても魅力的だ。ある意味宝石に相通ずるのではないかとも思った(持ってはいないが)。

とはいえ内容も重要であるのは今更言うことでもない。私は翻訳物が好きなのでこの3つを選んだが、各々の好みによってセレクトも変わるだろう。国内文学好きや、SFや時代物など偏愛するジャンルがある人だと全く異なるのではないだろうか。ぜひ様々な人の好きな文庫本レーベルも(あえて3つなど数を絞って)知りたいものである。